2010/5/31
この本の第2章はこの分野をリードする研究をしてきたことを私でも知っているという、John A. Barghによるもの.行為が意識とは独立に行われるという知見が彼の研究分野である社会心理学だけではなく,神経科学や,認知心理学でも得られているということを数多くの研究から明らかにしている.これらの知見がわかりやすくまとめられている.
Barghらの研究の驚くべき点は、被験者が意識しないような刺激,あるいはそもそも意識できない刺激(サブリミナル)を提示することで,その後の行為が無意識的に、そして顕著に変化するという点である.たとえば「協力」(あるいは「敵対」)という単語を事前の課題(たとえば語彙判断課題とか)で提示される.その「後に他者との協力あるいは競合が必要となる課題を実施する.すると、「協力」に関連する「仲間」とか「援助」などの単語を事前課題で見た人たちは協力的な行動が増加し,敵対的な単語を見た人たちは敵対的な行動が増加するという.老人関連の言葉(白髪とか杖)を提示すれば、その後に行われる記憶テストの成績が低下したり,実験終了後にドアまで歩いていくスピードが遅くなったりする.
下條信輔さんの本で詳しく紹介されていたはずなので例はこの程度とするが、これはかなり驚くべきことである.これと類似したものに,プライミングを用いた潜在記憶研究がある.ただしこれは事前課題で提示した単語に意味的に関連した言葉の認知スピードが速くなるとか,想起しやすくなるというものであり,意味ネットワーク、活性拡散のようなものを考えれば、それほど不思議という感じもしない.一方Barghらの研究では、行為自体が変化してしまうというところが謎なのだ.「協力」と言われただけで実際に協力的になるとか、「白髪」と聞いただけで行為のスピードが落ちるいうのは単なる意味ネットワークと活性拡散では到底説明できないだろう.
これについてBarghは、そもそも言葉というのは個体発生の初期においては行為と結びついたものであり、そうしたことが上記の実験の結果の一員であると述べている.この解釈はちょっと無理があるように思う.この解釈に従えば「協力」が協力行動を促すのはまだわかるとしても,白髪が記憶力の低下や行為のスピードの低下をもたらすことの説明は難しいのではないだろうか.他の本に出ていた「スーパーモデル」がクイズ課題の成績を劣化させたり,シューマッハが読解スピードを上げるなんて言うのも無理だと思う.
もう一つ大変に面白い問題提起と仮説が述べられている.これは意識の役割に関してである.意識を通さないでたいていのことが行われるとすると(第1章のものそうだけど),そもそも何のために意識なんてものがあるのかという疑問が当然のことながら湧いてくる.
Barghはこれについて、意識はさまざまな心的状態や活動を抽象的なレベルで統合するという役割を持っているという.(これは自分が考えた例なのだが)「男」という漢字を初めて覚えるとき、字のパターンをなぞるという、感覚と運動にのみ依存した覚え方もあるのだが,「田」と「力」だと意識的に分析し,これらをあるパターン(上下)で統合する覚え方もあるだろう.つまり最初のものはある環境刺激から部分的な行為が誘発され,その行為の結果に次の行為が誘発されという形,つまりパケツリレーというか,ドミノ倒しというか,そういう方法でしか物事は達成されない.しかし,意識的な把握があれば環境や行為の結果の時間的順序に依存せずに,一挙に物事を達成することが可能になるということだ.さらに、これらをチャンク化して、意識への負担なしに即時実行可能にする.そうすると「勇」という時を覚えるときには「マ」と「男」(間男?)として覚えてしまうこともできる.Donald(2001)は
Whereas most other species depend on their built-in demons to do their mental work for them, we can build our own demons
という形でこのことを述べているという(demonというのはチャンクと読み替えてもよい).つまり上の例で言えば「田」と「力」というdemonから、「男」というdemonを生み出すということになるだろう.
さてこうして考えると、とても逆説的な結論が出てくるという.それは「意識は無意識的に実行できることがらを集め,まとめあげ,これら全体を無意識的に実行可能にするために存在する」というものだ.別の言い方をすると,現状の(意識的?)分析から既存のチャンクを呼び出し、このチャンクと現在の情報を組み合わせたチャンクを作り,これを一発で(つまり無意識のうちに)実行可能な形に変化させる、ということになるのかもしれない.
なかなか面白いアイディアではあるが,いくつか疑問もわいてくる.
- なぜ新しいチャンクの生成には意識(特にawareness)が必要になるのだろうか.無意識のうちにこうしたことが出来る可能性はないのだろうか.
- 動物もこうしたことを日常的に行っているような気がするが,動物にも意識は存在しているのだろうか.
1も2も難しい問題だと思う.
2010/5/17
第1章のWegner, D. M.によるWho is the controller of controlled processes?を読んだ.ポイントは何かというと,意図が行為を引き起こしたというのはそういう知覚を行ったということであり,実際にそうであるというわけではない、ということになる.つまり、意図を行為の原因とするのは,習慣化された因果知覚に過ぎないという、驚くべき主張である.
因果知覚は
- 直前性(priority)
- 一貫性(consistency)
- 他の可能性の不在(exclusivity)
によって影響を受けるという.つまりある出来事Xが別の出来事Yの原因となるためには,「XがYよりも前に起き(prior)、XがYと意味的に関係しており(consistent)、他にそれらしい原因がない(exclusve)」場合ということになる.昼近くになって急な腹痛に教われたとする.するとその原因は「朝に食べたものではないか」と考える.これは朝食が腹痛よりも前におき,食べたもので腹痛が起こるという意味で一貫している.その間に何かを食べるチャンスはなかったとすればこの可能性はさらに高まる.一方,朝食と腹痛の間に何かを口にしていた場合には朝食ー腹痛間の因果関係は弱まる.
こうしたことは意図と行為の因果の間にも成り立つという.たとえば実際にはまったく自分の意志は介在していない現象(動かしていたマウスが止まる)に対して,その直前にそれらしい情報を与える(特定のポイントをさす単語を与える)と自分が止めようと思って止めたと誤解してしまう.二人羽織のような状況で、特定の場所に手を動かすような指示を聞き,その後に他者の手がその場所に移動すると、自分が動かしたような気がする.つまりいずれも自分が行った行為ではないにもかかわらず,その行為の直前に関連することがらが意識されると、そのことについての意識が行為の意図(=原因)とされてしまう(constructされる)のである.
もう少し別の観点からそれを述べると,以下のようになる.実際には以下で示すように,行為の原因は意図とは別のところに存在する.しかしこの行為に時間的に近接し,かつ意味的に関連した思考が発現する.このようなとき,ここの思考は行為の原因,つまり意図とされてしまうというわけである.
思考の原因ー>思考の発現
↓ 見かけの因果
行為の原因ー>行為の発現
具体例を出して考えてみる.煙草を吸うという行為が行われる.実は煙草を吸う行為というのは,身体のさまざまな物理的状態(血中のニコチン濃度が減ったとか)、環境の状態(そばにタバコがあるとか)などから、機械論的に決定されている.これが真の因果関係である.しかしここでタバコが視野に入るとか、飽きてきたとか、眠くなったとか、そういう心理状態があり,それが「煙草を吸いたい」という思考を生み出す.すると、そうした思考は煙草を吸うという行為とほぼ同時に発生し,意味的に関連しているので、(また他のそれらしき要因もないとすれば)その思考が行為の意図とされるというわけである.
それでは意図や思考の役割とは何かというと、それはある行為とその結果のpreviewを提供することにあるという.人間は経験を通して行為とその結果についてのさまざまなエピソードを貯えている.こうしたエピソード記憶が喚起され,その結末までを見通すことが出来るという.
で、彼の言葉でまとめると,
(mental causation) is a construction nonetheless and must be understood as an experience of agency derived from the perception of thoughts and actions, not as a direct perception of an agent.
となる.
まあ、これほど大胆な話はあまり聞いたことがない.行為の原因が意図ではないとすれば、あらゆる犯罪は過失によるものであることになる.どこか変だと思う.しかしこうした枠組みを使えば,物質と精神をつなぐという難問の一部を避けることが出来るはずだ.
その他、この章を読んでいて気に入ったのは
Volition is an emotion indicative of physical change, not a cause of such changes (Huxley, 1910).
Conscious will can be understood as part of an intuitive accounting system that allows us to deserve things (p.31)
2010/4/21
思考を前頭葉から解放する、という言葉はここのページで使った記憶がある.しかし、思考はそうしたものではないということが徐々に明らかになってきている.思考は
の生み出す情報に強く影響を受けながら営まれていることがいろいろな研究から明らかになってきた.つまりきわめてダイナミカルということだ.
特に私が注目してきたのは、思考と無意識との相互作用だ.思考は理性の現れであり,プランやモニタリングなどの意識の作用によって注意深く制御されたプロセスであるというのが常識だと思う.しかし思考以外の大半の認知機能は、無意識的、潜在的な処理の産物である.そうしたことからすれば,思考だけが無意識とは無関連に営まれているとは到底考えられないわけだ.
こうした次第でだいぶ前から、洞察のプロセスが潜在的学習のプロセスであると主張してきた.簡単に言うと以下のようになる.人は失敗を通して徐々に学習し洞察に近づく.しかしこれはほとんど無意識的なプロセスであり,意識はその学習のプロセスにはほとんどアクセスできないどころか、潜在学習の成果とは全く正反対の評価を行ったりする.そして潜在学習が進みいよいよもう洞察目前となった頃に、このとても鈍い意識的な、顕在プロセスが「わかった」などと叫ぶ.
こうした考え方を洞察においてしたのは自分たちが初めてだと思うが,意識と無意識の関係について同様の主張をしている人たちは他にもたくさんいる.たとえば慶応の前野さんは「受動意識仮説」を3冊の著作を通じて(たとえばここ)提案し,この問題に切り込んでいる.また下條信輔さんは「サブリミナルマインド」などを通して、認知と無意識との関わりについて包括的な議論を展開している.
こうしたものを読んでいく中で,実験社会心理学の分野では古くから意識ー無意識の問題を扱ってきたこと,そしてここ20年くらいはBarghやオランダのグループが高次認知活動における無意識の役割についての研究を展開してきていることを知った.この一部は「無意識と社会心理学」という訳書にもなっている.
こうしたことから,この分野の研究をもう少し体系的に知りたいという願望が強くなってきた.今年,非常勤をしている大学院で十数名ほどの参加者があったということもあり,
R. R. Hassin,, J. S. Uleman, & J. A. Bargh (Eds.) (2005) The New Unconscious (Oxford)
を読むことにした.この本は、
- Fundamental question
- Basic mechanism
- Intention and theory of mind
- Perceiving and engaging others
- Self-regulation
の4つのパート、全19章からなる本である.読み始めてみたがなかなか楽しい.機会があるごとにメモ代わりにここに気づいたことを残しておこうと思う.
2010/3/8
だいぶ前に似たような記事を書いたことがあると思うが、少し違う展開になるので一応書いておく.
私たちはどうしてこんなに注意されなければならないのだろうか.
工事の時の(なんというの)監視員、警備員(?)はまさしくそれだ.今,構内で街路樹の作業をしているが,警備員だけでもほどほどの数がいる.ちゃんと柵を設けて,はっきりと工事しているスペースが分かるにもかかわらずだ.通るたびに、「気をつけてください」などと言われる.小学生も通ったりするので必要などという人いるのかもしれないが,どう考えても無意味だろう.旧東急文化会館後の工事のところにもきわめて多数の警備員が配置され,右を歩けとか,段差があるとか,滑るとか,いろいろと注意する.
しかしなんと言っても一番すごいのは,電車だろう.電車に乗るとひっきりなしにいろいろな注意がある.
- 携帯(電話,プレーヤー)にかかわること(切れ,マナーモードにせよ、音漏れに注意せよ等)
- 荷物にかかわること(デイパックは前に持て)
- 姿勢にかかわること(足を前に投げ出すな、詰めて座れ)
- 乗車、下車に関わること(発車ベルがなったら乗るな、続いて降りろ)
毎日のように乗る電車で、乗るたびにこんなことを聞かされるのはばからしいを通り越して,怒りを感じる.というのも、この注意の対象者となる人たちは、こういう放送に注意を払うことは全くないので,有効性がゼロだからだ.
にもかかわらず、こんなことがずっと続いているのは,むろん鉄道会社の人間が費用対効果とか,副作用とか,そうしたことに無頓着だというのもある.
しかし、別の側面もある.それは当事者間のコミュニケーションが基本的に欠けているということも一つの理由にだろう。つまり嫌なことをされたときに,嫌なことをした人間と直接交渉するという姿勢がないのだ.自分が経験したことの中で思い出せるのは,
- マンションで持ち回りの理事をしていた年に,ある部屋の人がうるさいので理事会で注意しろという苦情があった、
- 小テストを実施していたときに,カンニングをしている学生がいたのに、(教員である私が)気づかなかったという投書が大学事務になされた,
などだ.こういうのは基本的に当事者でやるべきでしょう。それでもめたら、理事会なり,教員なり,大学当局なりに言うというのが,普通じゃないのかな.電車である人のキャリーバッグが邪魔ならば,「邪魔です」と言えばいい.音漏れのひどい人には「ボリューム下げて」と言えばいい.しかし言わない(自分もまず言わない).
こういうコミュニケーション力というか,交渉力というものが基本的に欠けている人が多くなったので、鉄道各社はいろいろな苦情をたくさん受けるようになったのでは.そしてこういうクレームを避けたいので、効果は全く期待していないがとりあえず注意しておくということで、毎日のようにアホな車内放送を流すということではないか.
馬鹿な話だと思う.
2010/3/8
櫻井義秀「霊と金:スピリチュアルビジネスの構造」(新潮社新書)を読んだ.たいへんにおもしろい本であった.神奈川県警の警視が関与していた神世界,霊感商法で悪名高い統一教会,スピコン(これは知らなかった)がどんなふうにして金を稼ぐのかが,被害者の話とともに解説される.またこうしたものだけでなく,神社,寺,教会などの一般の宗教がどうやって経営されているかについて解説されている.お寺も,教会も特別なところをのぞけば経営はかなり大変なようだ.幼稚園とか,保育園が付属する宗教施設は多いが,というか青学もそうか,これは信者からの寄付だけではとてもやっていけないためであるとか.
第4章ではスピコンの話を取り上げながら,なぜ現代人がこれにはまるのかについて論じられている.現代では,内在的な自己というものを発見し,それを実現することが奨励されているという.むろん,これは自己責任においてやらねばならない.一方,バブル崩壊後,安定した生活基盤を持てない人たちが増加してきている.こういう不安定な状態にある人たちは,この状態は「本来の自分ではない」と考え,実現すべき自己とは何かをスピリチュアルビジネスに答えてもらおうとする.しかしながら,実現すべき自己とは決して内在的なものではなく,他者との関係,社会との関係において決まるものである.よって,いつまでたっても実現すべき自己は見つからず,スピコンなどにあるお手軽なヒーリング,占いなどをはしごするということになる.自己についてこれと同じ趣旨の話は,以前に書いた覚えがある.最近読んだ内田樹さんの本にも砂粒化と言うような言葉で語られていたように思う.
5章はけっこう圧巻で正直驚いた.認知科学の成果がきちんとした形で述べられている。それに基づいて,人がどうしてカルトなどのインチキな宗教にはまるのか,また連中はどうしてうまく人をはめているのかがプロスペクト理論から解説される.
こういうのを読むと,認知科学が大学基礎教育場面でいろいろと利用できることに気づく.
2010/1/26
前の記事から考えが少し広まった.というか,いつも考えてきたことにつながった気がするので,少しこちらで展開する.
近年,被害者が特権的な地位を持つべきであるというような風潮が強くなってきたように思う.司法の場においても被害者救済とか,修復的司法とか、そういう考え方が現れ,単に法律違反を行ったから規定に従った罰を下すというのではなく,被害者の心情を考慮した判断が必要との考えが広まっている.
これは基本的に,刑罰というのが被害者というものを念頭に置いたものではなかったことに起因する.犯罪者が処罰されるのは、法律に触れたからであって,被害者に迷惑をかけたからではない,というのが基本的な法律の考え方だろう.これでは被害者は到底納得できない.そういうことで被害者の立場を取り入れた、あるいは被害者の関係者の意見を重視するような動きが出てきたというわけだろう.
被害にあった人に対して可哀想だとか,同情するとか,そういう気持ちは社会生活を営む上できわめて重要だ.これがない人とはおつきあいが難しいと思う.
ただし,被害者、あるいは被害者の関係者の言うことが正しいとか,彼らの発言が最も尊重されるべきだというのは話が別だ.たとえば身内を殺された人が「加害者をぜひ死刑にして欲しい」という発言をした時に,そういう気持ちが湧き出る理由を理解することと、その発言通りにすべきであるということは全く次元の異なる話だ.
一部マスメディアはこうしたとても短絡なロジックで報道を行って,一般市民の情念,怨念みたいなものに訴えかけようとする.これはとても危険な話だ.
裁判員制度が施行されてこうした危険な傾向がどんどん進むのかと心配したが,それは杞憂であったと思う.人はずっと賢い。
2010/1/25
今日,国谷さんがキャスターをしている番組を見ていたら「ほめる」ということが今注目されているという話しが出ていた.誰にもほめられず、黙々と子育てをする母親、仕事に追いまくられている若い男性などが出ていて,「ほめ言葉」をもらうこと,そうした本を読むことにより,生活のエネルギーを得られる,というような話しだった.
面白かったのはゲストとして出ていた春風亭小朝の発言だ.正確ではないが要約すると,
このごろの人たちは怒られたがっている.なぜならば怒られたとたん被害者となり,被害者は保護されるべきという論理がみんなに働くからだ.
となる.
けっこう当たっているような気がする.私がつい最近出た会合でも、自分はどれほどいろいろなことの迷惑を被っているか,被害に遭っているかということをひたすら強調する人たちがいて閉口した.自分の迷惑や加害はほっかむりで、人のことだけあげつらう,そして自分が被害者なのであるから,その意見が最も尊重されねばならないみたいな,まことに馬鹿げた発言をする.
こういう人間には「ふざけろ!」と一喝したいという気持ちが沸き上がってくるが,それをやめて「そんなに耐えてがんばったんですね」とほめてみるといいのだろうか.そうは思えないな.
2010/1/15
以前「体調不良」というエントリーで、偏頭痛、肩こり,目の疲れは風邪のせいであるという話しを書いた.今回は10月くらいからの風邪に始まり,その後の胃もたれ,頭痛と続き、12月末当たりに上記と同じ症状が現れ,また耳鼻科に行った.これで一発で直るだろうという思いだったが,実は全然よくならない.暮れから正月に書けて頭痛に悩まされながら暮らした.
そんな話し床屋でしていたら、マッサージという話しになり,いいところがあるとのことで出かけた(というか同じビルの上の階).さてそこで頭、肩,目がひどく凝る,疲れるという話しをして,少し揉んでもらったら、なんと「お客さんは歯が片方おかしくないですか」と来た.実は右の奥歯が二本ない.この状態はけっこう長いのだが、どうもそのせいで左側をやたら使ってかんでいたらしい.その結果,左側のほお,あごの筋肉が固くなり,さらにそれが首、肩まで広がり,それで頭痛を引き起こしているのではないかというのだ.それでそこらへんを集中的に指圧してもらった.
だいぶ楽になったような気がしたが,もう何回かは通えというので,通院した.すると2回目あたりからはほぼ数ヶ月に渡る頭痛も肩こりもとれてしまった.
意外な結末というか,本当に体は不思議ですねぇ.早く歯医者に行かねばならない・・・
2009/10/7
古本屋で古い本を集めるのが好きな友人がいる.昨日その人がにやにやしながら,一冊の本を私に渡した.よく知っている人の書いた専門性の高い本で、定価は1万円近くするのが5000円で手に入ったとか.しかし問題はそこではなく、その本の最初のページには献本のしおり(「著者謹呈」などと書いてあるやつ)が挟んであったということだ。つまり著者から送られてきた本をそのまま古本屋に売ってしまったわけですね.これはちょっと失礼だよね.少なくとも,献本のしおりは外すべきでしょうねぇ.彼はさらにすごい本も持っていて,それの表紙の裏には「謹呈・・・先生、xxxxより」などというサインの入ったものもあった(このかたの名前も知っている).これはさすがにしゃれにならない.
2009/9/25
一昨日,泳ぎ終わって水着を洗っていたら,尻の一部分が変色し,(黒だったのが)茶色っぽくなっている.いくらなんでも「あれ」ではないだろうということでよく見てみたら,その部分の繊維が変質して薄くなって,裏側がみえるために変色したように見えたということが分かった.
まだこの水着にして100回程度しか泳いでないのにこんなふうになるとは不良品なのかと思ったが,仕方ないので新しいのを買いに行った.そこで店の人に「水着の寿命って一年くらいですか」と聞いたところ,「はく回数にも拠りますが,毎日泳いだら数ヶ月が寿命です」とのお答えをいただいた.
そんなに短いんだ.ちなみに自分は100回程度は泳いでいるからちょうど寿命と言うことだ.なるほど筋が通っている.ということで,安めのものを買うことにした(といっても7000円くらい).
それにしても繊維がこれほど傷むくらいの水に毎日浸かっていてもよいものなのだろうかね.肌が傷むからやめようと思うか,人間って強いんだって思うか,そこらへんは考え方の問題だね.
2009/9/24
今日,床屋に行った.そこで教育心理学会に行ってきたという話をしたら,「教育心理学では何歳の子供にはどんな教え方をすればいいみたいな話をするんですか」という質問を受けた.確かにそういうこともあるのだけど,基本は分からないよみたいな話をした.そのときにこんなたとえ話をした.
床屋に来た人間の歳や干支や星座が分かったからと行って,そいつにどんなカットをするか,どんな髪型にするかは分からないでしょう.同様に,年齢が分かったってどんな教え方をすればよいかは分からないんだよね.
という感じだ.むろん,年齢と髪型には一定の相関はあるだろうが,だからといってそんな単純な変数一発でカットが終わりなはずないでしょう,と言ったらしきりにうなずいていた.
さてさらにその博識の理髪師から「最近は脳科学がずいぶんと発展したので,どうやれば脳に一番いいなんてことも分かったんですか」という質問をいただいた.そこでこんなたとえ話が続いた.
毛髪に関する完全な知識が科学によって得られたとしましょう.そういうことが理髪師全体に広がったとしても,今いる客にどんなカットと髪型をすればよいかは導けないでしょ.
ということです.使ってはいけない整髪料があるとか,そういうことはたしかにこの科学の知見によって分かるだろうけど,どんな髪型にするとか,どの程度切るとかそういうことは次元の違う問題だということだ.
けっこういい比喩かなと自画自賛している.
2009/9/19
教育に関わる民主党のマニフェストに、免許更新制の廃止といううれしい話があるとともに,教員養成を6年制にするというのがある。民主党の案では6年制にしてそのうちの1年を実習に充てるなどの方針が打ち出されている.
教育実習をやったにせよ大学を3月に卒業して、4月から担任というのはずいぶんと大胆な話だと昔から思っていた.ただ6年制にしたら本当に現場ですぐに活躍できる人材が育成されるかというとそういうわけではなかろうとも思う.また
6年もかかかるとなれば、当然入学者も減る危険性もある.勤めていたら2年間で500−700万程度の収入が得られるのに,逆に(私学の場合)200万程度の支出が生じるのだ.さらに6年もかけて先生になれない危険性も相当高い。小学校の教員採用は東京都の場合は数倍程度の倍率だが,中、高の場合は数十倍にもなる。医者だって,薬剤師だって学部を卒業すれば必ずなれるというわけではないが,ここまで厳しいものではないだろう.
などなどを考えていたのだが,昨日の朝日の投書欄を読んで,もっと大きな問題があることに気づいた.投書の主は,以前,アナロジーに関わるワークショップを日本心理学会で一緒にやった荷方(金沢美工大)さんだ。6年制にすると、いわゆる教育学部以外のところで教員養成をすることが著しく困難になるということだ。言われてみればその通りだが,考えていなかった.我が大学でも教育学科以外の学科,学部から、かなりの数の教職履修者がいる.こういう学部、学科はむろん4年制のままでいるわけで,後の2年はどうするのかという問題が出るわけですね.また教育学部を持たないが教員養成をやっている大学ではこれの担当者というのも多数いる.こうした人たちはどうなるのだろうか.
もう少し考えると教育学部などの教員養成をやる学部でも大きな問題になることは確実だと思う.というのも教育学部は教員養成だけをやっているわけではないからだ.また入学者の中にも教員は目指さないという人たちも一定数いる.こういう人たちはどうなるのだろうか.
いずれにせよ、ものすごい大きな変革が必要になる.ちょっと無理じゃないかなぁ.
2009/8/31
日本心理学会で阿部慶賀さんが洞察に関するワークショップを開き,そのスピーカの1人として参加した.
東京電気大の寺井さんは仮説空間,データ空間という理論的なバックグラウンドから洞察を検討した.言語報告をさせるといわゆる「はまった」状態から突発的に「ひらめく」状態への変化が見られる.しかし詳細な眼球運動の分析を行うと,この飛躍のはるかに前から,人間は洞察をする方向へとシフトしていることが分かるというもの.だいぶ前に聞いた研究なのだが,やはりその意義は大きい.
中部大学の清河さんは共同で洞察課題を行わせたときの結果を発表した.共同というよりは人のものを見ることがどんな意義があるのかを検討した研究だ.二人で20秒ずつ交替でパズルを解く.この際,一切のインタラクションは禁止されている.このような条件で行うと,1人でやったときよりも成績がよくなるという.さらにおもしろいのは,20秒でいったん中止して,人のを見るかわりに自分のやったことを見るという条件は,1人でやったときよりもさらに悪くなるということだ.メタ認知を導入して説明をしようとしていた.この研究も結構前のものだけど,やはりおもしろい.人の失敗が成功を生みだすのだろうか,それとも人の(部分的な)成功が成功を導くのだろうか.いろいろと研究課題がわき出てくる.
青山学院大学の阿部さんは,社会的交渉における裏切り者検知という進化的に作り出されたバイアスが,ある種の洞察問題解決を阻害するという話をした.扱った問題は次のようなものだ(細部は違う).
太郎,次郎,三郎は土産物屋で1万円ずつ出し合って,3万円の品物を購入した.このお金を受け取った店員が店主にこのお金を渡しに行くと,5000円まけてあげなさいといった.この時店員はこの5000円の中から2000円をねこばばして,3000円を三人に返した.三人はこれを1000円ずつに分けて受け取った.さて,三人の出したお金は9000円×3で27000円,猫ばばした店員の2000円と会わせると29000円にしかならない.1000円はどこに行ったのでしょうか.
というものだ.この問題はかなり難しくて,自発的に解ける人はそれほど多くはない.阿部さんはこの原因が猫ばばという裏切り者がいるため,そこに執着してしまうことと考えた.そこで猫ばばではないような問題にこの話を変えたところ,成績がかなり向上したという.進化と洞察を結びつけようということらしい.
私は,洞察の突発性,驚きは,失敗からの潜在学習の成果を,それを意識が後から観察することに拠るものだ,という発表を行った.潜在学習や意識のコントロールを離れた認知は数多く存在する(偶発学習,潜在記憶,潜在学習などなど).だとすれば思考だけは潜在とは無縁だと考えるのはおかしい.実際,洞察が意識的なコントロールとは相性が悪いという報告は数多くある.ということで,潜在成分を含めたモデルを提案し,これを実証するために行ったサブリミナル刺激を用いた実験を報告した.これも古い.
コメンテータの三輪さん(名古屋大)はご自身の最新のデータも呈示しながらだったが,時間切れできちんと聞けなかった.こんどしっかり聞くことにしよう.
初日に午前中のワークショップと言うことで,開始15分前に行ったら,発表者以外の人は一人だけという状況で,これはどうなるんだろうと思ったが,最終的には20人くらいの方が聞きに来てくれた.このコミュニティが広がることを祈りたい.また阿部さんの努力に感謝したい.
その後,推論のシンポジウムのディスカッサントとして午後のセッションに出る.ここでは理研の入来さんや,霊長研の友永さんなど,本当にお久しぶりという方たちと合い,生産的なディスカッションをすることができた.もう1人のディスカッサントのSteven Slomanさんとも10年ぶりくらいでお会いした.ただこれらはほとんどシンポジウム前の話.シンポジウム自体は,企画者の坂本さんが「何でも推論なんだ」ということでいろんな推論を集めたとかいう程度なので,全体としてはあまり意味のないものであったと思う.
2009/8/31
オノマトペ(onomatopoeia)という言葉はご存じだろうか.あまり一般的ではないらしいが,擬音語や擬態語を指す.擬音語というのは,ある状態に伴う音を言葉にしたもので,「どたばた」とか,「わんわん」とか,そんな言葉を指す.こうした言葉を聞くと,聴覚的なイメージが活性化し,印象的になる.擬態語というのは,音ではなく主にその状態の視覚的なさまを指す言葉で,「もじゃもじゃ」とか,「きらきら」なんていうのが典型的なものだ.こちらは視覚的なイメージを喚起し,通常の言葉にないインパクトが出る.つまりオノマトペはいわゆる言葉の意味という認知的な側面に留まらない,感性的な情報を伝えているようである.こうしたことを反映して,擬音語や擬態語で表現した文章はそうでないものに比べて記憶成績が向上するとかそんなことが知られている.
さてこれらは本当に聴覚的,視覚的なイメージを喚起するのだろうか.このことが気になった昨年のゼミ生の山崎陽子さんが実験を行った.さてワーキングメモリには,音声的な情報を保持するという音韻ループというものと,視覚的な情報を保持する視空間スケッチパッドと呼ばれるものがある.もし擬音語が聴覚的なイメージを喚起するとすれば,そればそれは音韻ループ内に展開されるし,擬態語に関しては視空間スケッチパッド内に視覚表象が展開されるはずである.よって,擬音語を記憶させるときに他の音声へも注目させたり,擬態語を記憶させるときに他の視覚情報へも注目させたりすれば,各々に負荷がかかり,記憶の成績は低下することが予測できる.こうした実験方法は二重課題(dual task)法と呼ばれ,古くから用いられてきた.
こうしたことで実験を行うと,擬音語を記憶させるときに他の妨害的な音声刺激を入れると視覚的な妨害刺激を入れたときよりも成績が悪くなる.一方,擬態語を記憶させるときに視覚的な妨害刺激を入れると,音声的なそれよりも成績が低下するが統計的にはその間に違いは見られなかった.
問題は擬音語の方ではなく,擬態語の方にある.どうして擬態語では視覚刺激が妨害にならないのだろうか.1つ考えられるのは,記憶リストとして用いた擬態語には視覚性の強い「きらきら」とか,「もじゃもじゃ」などのようなものもあったが,「すべすべ」とか触覚性の単語も含まれていた.触覚性の単語は視覚的な妨害は受けないはずだから,それらの単語の成績がよいために,視覚妨害の効果が出なかったという可能性がある.そこで視覚的な擬態語とそうでない擬態語に分けて分析を行ったが,いずれのタイプの擬態語でも再生成績に違いはなかった.
もう1つの可能性は視覚的な妨害刺激についてである.この実験ではパワーポイントのアニメーションを用いた運動的な視覚刺激が用いられた.こうした刺激の特性が妨害を生じさせなかった可能性もある.具体的にいうと,擬態語では運動的なイメージを伴う単語も用いられたが,そうでない単語が多数存在した.こうしたことから,運動系の擬態語はこの妨害刺激の干渉を受ける可能性があるが,そうでない単語は受けないということも考えられる.そこで運動系の擬態語とそうでない擬態語に分けて再生率を見てみたが,やはり差はなかった.
ということで,擬態語は
- いわゆる視覚的な表象を活性化するとは言えない,
- 視覚表象も活性化するがその他のモダリティの表象も活性化する
- あるいは視覚妨害刺激が適当でない(この可能性はむろんつまらない)
いずれかの可能性ある.こんなことを8月26日から3日間行われた日本心理学会で発表してきた.鳥取大学の田中さん,名古屋大学の鈴木さん,法政大学の矢口さん,東京大学の針生さん,京都大学の楠見さん,青山学院大学の重野さんから示唆に富むコメントをいただいた.このおかげで今後の展開の糸口が見えてきた.具体的には,以下のような可能性を検討する必要があると思われる.
- (少なくとも視覚的な)WMへの干渉課題は保持時に行うのが普通(<ー田中さんのコメント)
- もう少し標準的な二重課題の妨害刺激を用いた方がよい
- 擬態語は被験者ごとに,視覚,聴覚,触覚性の度合いを各単語について聞いて,それをもとに分類をした方がよいのでは?(<ー針生さんのコメント)
やはり学会は楽しい.
現在は,ゼミの根岸くんが記銘語を視覚呈示した場合(上記の実験は聴覚呈示)に同様の効果が得られるかを検討している(どうもちがうようだ・・・).
2009/7/7
先週,長らくBlogを書いていたサイトを閉じた。その影響で,研究業績のページ中の論文のダウンロードなどがまったくできなくなった.ということで,このサイト内にすべて関連のファイルを移行した.けっこう時間がかかった.
興味があったらのぞいてみてください.
2009/6/5
ここ数年?くらい,1年に一回あるいは二回くらい,ひどく体調が悪くなっていた。典型的には,頭の片側が痛くなり(片頭痛?),そちら側の肩が凝り,またそちら側の目がひどく疲れる。肩が凝ったからか,ということでアンメルツを塗ったり,めがねが合わなくなったからかと眼鏡屋に行ったり,そうこうしているうちに何となく良くなって,それで終わりみたいな時期を過ごしてきた。
今週の初めから,また同じ症状が出てきて,眼鏡屋に行ったりしたのだが,なかなか直らない。昨日はかなりひどくなった。特にその痛みが広がって,耳とか,あごの下とかまで痛くなってきた。これはなんかへんなのではと思い,今日医者に行った。
で,なんと医者が言うには「風邪です」。え,風邪なんですか,と聞くと,のどが腫れている,おそらく鼻も炎症を起こしているという。で,治療をすると,なんとその場で肩こりがなくなった。なんのこっちゃ。風邪だったんかい。
鼻水が出て,熱が出て,のどが痛くてみたいなのが風邪だと思っていたのだが,そうではないらしい。こんなに軽く片がつくのだったら,さっさと医者に行けば良かった。
2009/6/3
長い原稿を書くときには,未だにemacsとlatexを用いている。こうやって作ったものをPDFにして印刷する。通常はこれでいいのだが,出版社によってWordのファイルが必要になるときもある。また少なくともコメント機能に関して言えば,AdobeのReaderやAppleのPreviewよりも,Wordの方が楽ちんだと思う。ということで,Wordファイルが必要になるときがある。
Acrobatを購入すれば,Word形式に落とすことができるのだが,さすがにずいぶんと高い。たまにあるかないかの話だけのために,そんな大金は払いたくない。
こういう方のためのサイトがここです。pdfファイルをアップロードして,ボタンを押して,ダウンロードして終わり。フォントが落語(相撲?)みたいになって笑えるし,行末などの処理がおかしいのだが,1ページの文字,行などは正確に再現する。ただ図はあまりに細かいのはだめみたい。簡単なフローチャート系だったら大丈夫みたいですね。
このサイトでは他にpdfをテキストにしたり,htmlにしたり,イメージにしたり,逆にテキストをpdfにするサービスもしている。便利です。
2009/5/29
NHKーBSで「世界の10代」というのをやっていた。1回めがアフリカ、2回めがパレスチナ、3回めがイラン、4回めがデンマーク(?)だった。4回めはきちんと見ていないのだけど、なかなか面白い。
1回めは、ウガンダの高校。男尊女卑がすごくて、リーダは男以外はあり得ないというところ。ここで挑戦する女子が前半の主役。後半は、セックスに関する教育を取り上げている。あまりに貧しいせいか、ノートや鉛筆を買うお金欲しさに真面目な子供が売春に走り、妊娠の結果、学校を去ることが多い地域を取り上げていた。なんとかしようと立ち上がった校長先生は正直言って、人権無視とも言えるくらい強烈に性の教育を進める。全校生徒が集まる朝礼で、「胸の大きな子は手を上げなさい」とか、そういう子供が妊娠していないかどうか医師に半ば強制的にチェックさせるとか、妊娠したら退学とか、ものすごいことをやっている。この先生が子供に言う言葉がすごい。「もし君たちが結婚したときふつうは相手は結納で牛一匹くれる。しかし君たちが処女だということを知ったら、だまっていても十匹差し出すだろう@_@;」などという。間違っている部分も多いと思うのだが、その校長はそのくらい若い女の子たちが貧困故に性犯罪の被害者になっていることをなんとかしようとしているのだ。
2回めはパレスチナ。これは打ちのめされた。ふつうに幸せを願って生きていこうとする女子高生のドキュメントだ。我が国でもおそらく多くの少女が抱くものと同じ少女らしいさまざまな夢を抱いて生活する。しかしそうした生活を根源から否定するのがイスラエルからの入植者、そしてそれを保護するために派遣されるイスラエル軍兵士たちだ。この連中のやることはものすごい。兵士がパレスチナ人を弾圧するのは予想できるのだが、さらにたちが悪いのが入植者と呼ばれる連中だ。自分たちがナチスドイツにやられた腹いせなのだろうか。幼稚園に行くかいかないかのレベルのがガキから、おばちゃんあたりまで、まあ信じがたい。
さてなんと、イスラエル兵士たちはこうした入植者たちを守るとともに、彼らがあまりに過剰なことをやらないように派遣されているという。呆れ果てた国家だと認識した次第だ。しかしこうしたことに強く抗議するイスラエル人も出演していた。ということだから、イスラエルの国家政策と、イスラエル人を同一視しないということは大事なことだ。
日本はアメリカのお友達というか、属国というか、一つの州というか、奴隷であるので、アメリカが応援するイスラエル側の情報がバランスがとれないほどたくさん入ってくる。よって自爆テロなどを行う狂気のパレスチナ人というイメージを強く持つ。またオレくらいの年の人間でもパレスチナ、連合赤軍、重信房子という連想で、やはりあそこはイカレタ人間がたちが多くいると考えがちだ。その少女も「パレスチナ人と言っただけでテロリストのように思われる」と述べているが,現実は全く違うと違うということを深く認識した次第。
3回めはイランの女子受験生の話し。これは正直,別の意味で驚いた。受験生の傲慢さというのは日本だけの話しではないという次第。確かに優秀なんだろうけど,何でもやり放題。受験のためには一家総犠牲もやむなし。へぇ,かの国でもそうなんですね。って,日本では噂くらいしか聞かないけど。ちなみにかなりびっくりしたのはイランでは女子の大学進学者がとても多いという事実だ。受験生の6割は女子だとか。女性差別で有名なサウジアラビアとか,タリバンの狂気の女子への弾圧とか,イスラムと女性の進学とは相性が悪いと思っていたけど,そうとは言い切れないわけですね。ただ,イランはシーア派であるけど,サウジはスンニー派,ここら辺も関係するのかな。
2009/5/26
標記のような題名の本に1章を書いたが出版された。これは昨年2008年の2月に慶応大学のGlobal COE(代表:渡辺茂先生(表紙の左の人は渡辺先生に少し似ている))で国際シンポジウムを行ったときの発表者が1章ずつ書いたものをまとめたものだ。
ここで私は,洞察研究を通して,創発の4条件を検討した。複数の内的資源が中央制御を離れて,ある状況下で同時活性し,環境と相互作用することを通して,新しいパターンを作り出す,これが創発だ。

4条件とは次の通り。
- 生成性:人間はプログラムされたこと以上のことができる。あるいはプログラム自体を作り出すプログラムを持っている。
- 冗長性:人間は一つのことを行うのに複数の手段を持っている。そしてそれらは同時に活性化する。
- 局所相互作用:人間の行動は意識によってコントロールされているわけではない。意識は潜在的な活動の一部をモニターするだけ(これはちょっと言い過ぎか)。
- 開放性:人間は環境と絶えず相互作用する。その相互作用こそが創発を支えている。
ほとんどこのことを言いたいだけで(というか,こんな大変なことを言うために),ここ10年くらい生きている。よかったら読んでください。ちなみに青山の図書館には寄贈しておきます。
2009/5/19
報道を見ていると本当に情けないというか,恐ろしいというか,なんとも言えない不快感がこみ上げる。先日も書いたがまた気になることがいくつか出たのでメモ代わりに書いておく。
新型インフルエンザ
これもまた前回に書いたことがそのまま当てはまり,ひたすら恐怖をあおる。煽っておいて,パニックになるなとか,おかしなことを書いている。
それにもまして気になるのが,学校の休校だ。大阪,兵庫で中,高校が全面休校になっているとか。これで先生も生徒も,困っているとか,不平がなどという報道がよくなされている。修学旅行が中止されたとか,保育園が休園で働く親が困ったとか,哀れなケースもあるが,生徒のレベルに話を限れば,喜んでいる方がはるかに多いのではないだろうか。学校が休みというのはそんなにつらいものなのだろうか。
小学生の頃おたふく風邪がはやりクラスで10人以上も休んだことがあった(当時1学級45名)。無事に学校に来ていた同級生たちの話題はいつ学級閉鎖が起きるかということだった。むろん目を輝かせて話していた。結果的に学級閉鎖にはならず,さらに(罰か)自分もおたふくにかかり,学校は行かなくて済んだのだけど・・・
まあ40年前の話なので今もそうだとは断言できないが,この間に学校がすごく楽しくなったとか(じゃあ何で不登校が激増したわけ),子供がとてもまじめになったとか(ゲームに夢中になっているんでしょ),そんな話は聞いたことがない。
あまりに一面的というか,紋切り型というか,嘘八百というか,そうした報道姿勢に強い疑問を感じる。学校は楽しくて,すばらしいところであり,みんなが毎日ニコニコしながら登校するというような,「二十四の瞳」みたいな世界であると,我々を洗脳しようとしているのだろうか。
草薙くん
これもまことに馬鹿げた大騒ぎで呆れ果てた。「そんなことしちゃだめだろう」と笑ってすませる話が,なにやら大犯罪のような扱いになる。芸能誌ならばともかく,大新聞,テレビまで大騒ぎだ。NHKでは速報のテロップまで流れた。鳩山大臣は(後に謝罪したが)「最低の人間」ときたもんだ。これを最低と呼ぶとすれば,あまりに世間知らずだ。あなたの党はもっとすごいのを生みだし続けてきたじゃないですか,と言いたくなる。
個人的には草薙くんの公然わいせつより,記者たちの軽薄さの方がよほど犯罪的だと思う。もっともこれについては,いわゆるネットで有名な「正論」以外の意見もかなり出ていたので,そこらへんはちょっと安心ですけどね。
2009/4/20
新聞やテレビでも話題になっている,youtbueでアクセスナンバーワンを誇るスーザン・ボイルさんが出ているこのページは訪れるべきだと思う.侮りが笑いへ,そして感動が待っている.
2009/4/14
非常勤でここ4,5年くらい教えている大学がある.50-100名くらいの受講者がふつうで,一番多いときでも150名くらいだったと思う.ところが先日今期初めての講義に出かけたら,160名ほどはいる教室が満杯どころか,立ち見どころか,廊下に学生があふれていた.
こういうのはむろん大変なのだが,私としてはそれほど悪い気はしない.100名入る教室に10人未満とか,250名の巨大教室に40-50人ほどちらほらみたいなケースが,私の場合はとても多く,なんともやりづらい.人気がないんだろうなぁとため息をつく.こうしたことが多い私にとって,今回は未だかつてない入り方で,ついに私の講義の真価が伝わり始めたのか,と思うわけだ.
しかし今まで5年くらいやって,こんなことがなかったのに,昨年の講義の噂が突然広まるなんてことがあるのだろうか.まあないだろうねぇ.考えてみればいろいろと理由はある.まず曜日と時限が変わった.前は金曜5限などという,およそ人気のない時間にやっていたが,今年は木曜日4限だ.これは大きい.バイトは夕方からとすれば,4限は十分に可能な範囲だ.またその時間にやっている講義がどのようなものかも関係するだろう.つまり同じ時間に必修科目が少ないとか,おもしろい講義が少ないとか,ということも考えられるし,昨年までの時間帯は超人気のある講義が行われていた可能性もある.
こういうのはテレビ番組と同じだ.ふつうの人がまず見ない時間帯に放映すればどんなに立派なものを作っても視聴率は低い.また視聴率をとるには番組自体をおもしろくするというのもそうなのだが,他の局でおもしろい番組をやっていない時間帯にやるというのもあるわけだ.番組の価値(視聴率)は番組に内在する訳ではなく,その他の番組との関係によって決まる.
もっと言えば、ものの値段自体もそうだ,というのは経済の常識.だいぶ前になるけど,新聞に「ワケあり商品が大人気」とかいう記事が出ていた.ワケありは、半端もの、傷ものなどで、通常店頭に並ばない種類のものをさす.割れたせんべい,大きさが不揃いのイチゴ、足の折れたカニ、ちょっと裂けたタラコなどいろいろある.味などはまったく変わらないのに,出荷できないために今までは産地で消費していたとか,捨てていた代物だ.しかしこれをネットなどで通常商品の半額程度販売したところ、バカ売れだと言う.それはそれでいいのだが、あまりに人気になってしまい,その結果訳なしの商品が大量に残ってしまい,結果的にそれを値引き販売をせざるを得なくなり,訳ありも訳なしもほぼ同じ値段になったものもあるとか.
進化もそうだ.昔訳した「アナロジーの力」という本によれば、パンダは摂食面でも,生殖面でも決して優れているとは言えないそうだ.たとえば生殖ー>受胎可能期間は数日、餌は基本的に笹しか食べない.道徳的かもしれないが,生物として決してよい特徴とは言えないだろう.じゃあ、なんでこんな生き物が数百万年も生きているのか.それは彼らの生息する環境に競争相手がいないからだ.捕食者がいない,同じ餌を食べるたの生物がいない,こうしたことがパンダの生存を支えている.要するに、行き残るかどうかは、その個体自身の性質で決まるのではなく,他の生物を含めた環境に関係しているわけだ.これまた進化の常識.
こういう考え方は,構造主義とか,関係論とかいう見方と言える.つまり意味とか価値はそのもの自体に内在するわけではなく,他のものとの関係によって決まるというわけだ.下世話なネタでひんしゅく買うかも.
2009/4/12
標記のようなタイトルの本が出版されました.これは私
が代表をしていた青山学院大学総合研究所のプロジェクトの成果をまとめたものです.このプロジェクトは,高等教育,教育社会学を専門としている杉谷祐美子先生,図書館情報学を専門としている小田光宏先生,学習科学が専門の長田尚子さんとの共同により進めてきました.目的は,大学生のレポートライティングの力を協調学習を用いて向上させようというものでした.
なぜライティングかというと,むろん大学ではレポートライティングが随所で必要とされるからですが,それだけではありません.ライティングには論理性,創造性,メディアリテラシー,対話力という,これから社会に出て行く人に欠かせない大事な力が統合的に用いられる必要があるからです.よって,ライティングをきちんと学習することにより,こうした力も育つのではないかという期待があります.
こだわりは2つあります.1つはレポートライティングの教育を書き方の教育にとどまらせないと言うことです.論理的に文章を構成することはライティングにおいてきわめて重要なことです.しかしそれだけではない,「何を書くか」,つまり書くべき問題を見つけ出すこと=問題設定も同様に重要と言うことです.これもターゲットにしようというのが1つめのこだわりです.
もう1つのこだわりは,仲間との相互作用を通して何を書くか,どう書くかを学びあうことを重視するという点にあります.レポートの書き方を教えるというと,何度も書かせて先生が添削して,ということがイメージに浮かんできます.しかし,正解を先生から教えてもらうというのは,学習のあり方の1つに過ぎないし,おそらく学校を出たらあまり重要でなくなる可能性が高いものです.こうしたことから,完全な知識を持たない学習者同士が相互作用を繰り返すことを通して,大事なことを自分たちが発見していく経験が必要と考えています.
というようなこだわりからこの本ができあがっています.よろしかったらどうぞご購入ください.値段は2500円と安くはないですが,決して高いという範疇にも入らないと思います.
2009/4/11
つい数ヶ月前に猛烈な円安が始まり,一時は90円を切るほどになった.しかし最近はもうちょいで100円ということになっている.さて円安が始まったときメディアはどのような報道をしたのだろうか.多くの輸出産業のトップにインタビューをして,「もうだめ」,「限界を超えている」など,人を強い不安に落として入れる報道をもっぱらしていた.韓国旅行が増えたなどの記事も確かにあったが,それは例外でだろう.
それではこんどは円高が止まったときは何を報道しているかと言えば,ほとんど何もしていないのではないだろうか.持ち直したとか,危機を脱したなど,人を安心させる報道は何もない.
同じようなことはガソリンの値段に関しても言える.上がって生活を苦しめるときにはみんなの悲鳴を報道する.一方,値段が下がったり,円高でさらに得するときには,何もではないだろうが,前者の時のようには報道しない.
こうやって人を不安な状態に陥れるのはなぜなのだろうか.単純に考えれば,その方が売れるからなのだろう.もう少し言えば,人は警戒すべき情報に対してより敏感である,あるいはそれを重要視するということなのだろう.人は,幸福になる情報よりも,不幸になる情報の方が価値が高いと判断することなのかもしれない.これはTversky & Kahnemanのプロスペクト理論にもう少し何かを付け加えると説明がつくことかもしれない.そうした意味においては,メディアの情報選択,情報操作は誠に理論に合致したものと言えるのかもしれない.
しかし,こういう姿勢は,扇情的であり,危険である.こういう不安定な心理状態に置かれた人は,情報の確実性に留意しなくなり,流言,デマ,政治的宣伝にきわめて反応しやすい状態になってしまう.以上のことから,メディアは市民を危険な状態に意図せずして陥れる,恐ろしい側面を持っていることがわかるのではないだろうか.
2009/4/7
今朝の朝日新聞に「拝啓ダーウィン様」とかいう記事があった.そこでは人間の言語を司る遺伝子(FOXP2)とほぼ同等のものがチンパンジーはおろか,マウスにもあったという話が出ていた.それでマウスに言語を話させる実験をするとかいう,研究者の談話が載っていた.
そんな話があったのかと驚いたので,以前特定言語障害というので有名になったイギリスの家族の話を思い出した.確かこの家系の人はこの遺伝子に異常を持つ割合が高く,そうした人たちはかなりの確率で言語障害を起こすようになるというのである.それで調べてみたら,まさにこの家系についてのお話に基づいて,記事に掲載された研究者がお話ししていることがわかった.
しかしこの話というのはその後の研究では,それほど単純ではないことがわかっているはずだ.たしか,この家系で障害を持つ人は,一般的な知能遅滞とか,他の確か身体的障害も伴っているということがわかったはずだ.こうしたことから,この遺伝子が言語の遺伝子というほど単純ではないというのは,ずいぶん当たり前の話になっていたのではないだろうか.それとも何か別の大事な発見がその後になされたと言うことだろうか.
それにしてもこの記事に見られる推論には,ずいぶんと大きな問題がある.ふつう人間において言語の機能を司る遺伝子がマウスにもあったという話を聞けば,その遺伝子は言語には関係ない,あるいはその遺伝子だけで言語が作り出されるわけではない,という推論をするのではないだろうか.この事実から,マウスも言語を話す潜在能力があるというのは,むろん可能性としては存在するが,あまり妥当性の高いものとは言えないだろう.
また言語という言葉で何を意味するのかが全く問題にされていないというのも気になる.言語は古典的には,音韻,文法,意味,状況,近年は身体,運動も関連するとされている.これら多くの能力の総合的な構築物として言語を考えるというのが,ふつうではないだろうか.文法だけを特権化して,これを言語というのはなんとも不思議な感覚だ.
2009/3/29
昨日(28日)に,東大の繁桝先生の退官記念パーティーに出席した.参加者100名超の盛大なパーティーだった.場所は日比谷公園内の松本楼というところ.ここは年末(?)あたりに安いカレーを出すというイメージしかなかったのだが,むろんそれは私の無知のせいであり,立派なところであった.
繁桝先生は日本におけるベイズ統計学の権威であり,心理学,教育心理学,統計学,意思決定などさまざまな分野の一線で活躍されてきた方だ.初めての出会いは,私が東北大学院受験の時に,受験者対面接官という形のものだ.何か質問された記憶はあるのだが,むろん覚えていない.その後,東京工業大学の助手時代に再会し,数年間くらいはほぼ毎日のように顔を合わせた.その後先生が東大に移られた後は,非常勤を頼まれて,それ以来半年に一度はお話しをするという形でおつきあいをしてきた.
先生の特徴はネガティブな,あるいは後ろ向きな発言,態度がないということではないかな.悪い面ではなく,よい面を見つける,悪い面しかない場合はそれを忘れる,あるいは無視する,というのが,私の印象だ.だから,人を貶さないし,だめなことを延々と議論することがない.また自分の正しさを人に押しつけないというのも,印象的だ.
当日配布された文集の中に,先生についての優れた観察や,おもしろいエピソードが満載されていた.その中でも繁桝先生をよく表す言葉が書かれていた.「桃李もの言わざれど下自ずと蹊をなす」というものだ.これはなんとも,私の繁桝先生に対する印象をよく表す言葉だと思う.
2009/3/29
E-learningという分野について完璧に誤解していた,ようなので,ここに反省を込めて書く.
「E-learningが・・・だ」という言い方はやめた方がよい.これはE-learningが完全に一つの領域として確立している,あるいはまもなく確立するからだと思う.
正直言って,E-learningについてあまりいいイメージを持ったことがなかった.何となくコンセプト自体が陳腐だとか,いわゆる工学手法により教育を画一化するとか,そういうイメージを持っていた.それはそういうE-learningを多数見てきたからだ.
しかし27日に私が代表をしている科研費の研究会で,電通大の植野真臣さんの研究を聞いて,正直打ちのめされた.Vygotkyan,協調などの学習科学のコアコンセプトが,LMSとともに見事な形でまとめ上げられていた.植野さんは確率のプロ中のプロであり,特にBayes統計学の先端的利用と理論の拡張で国内外ですばらしい業績を持っている理論家であることは知っていた.しかし,こうした知見をさらに教育のために展開し,見事なE-laerningのシステム,SAMURAIを構築されている.これはもうかれこれ10年前からやっているそうなのだ.これを知らなずに彼の話を聞いた参加者は打ちのめされ,自分の不明を恥じた.知っている人に聞くと,植野さんがこれだけやったので,LMSはみんな手を出さなくなるくらいになっているとのこと.よくわかる.
確立した分野というのは,それ自体がいいとか,悪いとか言うことはほとんど無意味だ.たとえば,哲学はだめだとか,認知科学は未来があるとか,そういう言明は基本的に意味がない.このような言明は「悪い哲学研究を見たことがある」とか,「よい認知科学の研究に触れた」程度のことに過ぎない.
私たちのやることは,その分野自体がどう思われているのかではなく,そこでBestな仕事を目指すことだけなのだ.そういう,ある意味当たり前のことに気づいた次第.
2009/3/16
WBCの二次予選がいよいよ始まる.ほとんど興味はない.侍ジャパンという名前になっているそうだ.なんだ,それは,単に「日本」でよいじゃないかと思っていた.
しかし実はこれについて原監督のおもしろい話しがある.これまでの恒例では監督の名前をつけた「監督名ジャパン」というのが一般的だった.しかし,「原ジャパン」というのはなんともおこがましい,自分はそんな人物ではないと固辞し,それで周りの人が考えたのが「侍ジャパン」というらしい.
いつのころからか,日本代表のチーム(サッカー,野球,バレーボール)を監督名+ジャパンとするようになってしまった.これはどうも変な話だと思う.監督も含めて上に立つ人が組織にとって重要なのはもちろんだ.しかしチーム全体の功績や失策が一人の人間に集約されて語られるように感じられ,どうも違和感が強い.なんか底の浅いトップダウン,リーダーシップ待望論みたいなのが背後に見える.指導者さえよければなんとでもなる,というような,そういう感覚だ.
2009/3/12
今年度(2008/4−2009/3)前半はあまりたいしたことをしなかった.そのおかげで,特に夏休みはオリンピックもしっかり見たし,水泳もほぼ毎日出来た.しかし後半はそのつけというか,けっこういろいろな仕事をしたように思う.
10月くらいまで慶應の渡辺先生の編集する英語の本に載せる,創発認知の原稿を書いていた.英語は日本語で書くのに比べて5−10倍程度の時間がかかる.そして書いたものを読み返すと,これまた5−10倍程度落ち込む.ふぅぅ.その後,ある本の解説を頼まれてその原稿を1,2週間で書いた.
それから,「対称性」に関わる認知科学の論文を書いていた.対称性というのは,簡単に説明しがたいけど,主に子供の言語獲得や,動物の認知,学習に関わる現象だ.このページに,この特集の企画者の説明がある.ここらへん何も知らないので,10,11月と一所懸命勉強しながら原稿を書いていた.途中から大変に楽しくなり,かなり満足のいく原稿が書けた.
これが終わると,昨年度まで青学の総合研究所のプロジェクトとして行っていた「大学生のレポートライティング力向上」の最終報告書を仕上げていた.これはまもなく本として出版される.また別の機会に記事を書くと思うけど,「学びあいが生み出す書く力」(丸善プラネット)というものだ.これのために2ヶ月ほど,レポートライティング漬けになって,原稿を書いた.
これが何とか目鼻がついてきたのが1月中旬,その後放心状態1,2週間くらいで,学期末試験採点,入試と続き,2月中旬あたりから,今度は科学研究費の報告書作成となる.この研究は,対称性でもないし,レポートライティングでもなく,サブリミナル刺激を用いた洞察問題解決研究というものだ.これがやっと今日完了.印刷屋に渡す.それにしても,我が研究室の卒業生の努力には頭が下がる.彼らの努力と知性がなければ,この報告書は書けなかった.
こういうふうに相互にあまり関係のない仕事をしていると,切り替えというのが大事になる.仕事Xは終わり,モードチェンジして,仕事Yという感じだ.だいぶこういうことも上手に出来るようになってきたと思う.
ただ弊害というのもある.切り替えをしすぎて,前の仕事をほとんど忘れてしまうというのがそれだ.自分が何をそこで書いたのかを忘れてしまうことが多くなった.そもそも書いたこと自身忘れていることもある.対称性の論文はまさにそれで,数日前に学会誌「認知科学」が来て,ぱらぱらめくっていたら,自分の名前があって一瞬だけ驚いた.
2009/3/9
ふと気づいたんだけど,学校というのは廊下のドアを開けて教室にはいると,黒板が右側にあることが多いと思うのだが,どうだろうか.薄れる記憶をたどってみると,自分が通った学校は小,中,高とすべて廊下から見て右側に黒板があった.ちなみに学校は特定の一地域というのではなく,札幌,福島,静岡,富山といろいろな地方のものです.
なんで廊下から見て左側に黒板のある教室はない(あるいは極端に少ない)のだろうか?
2009/2/26
数本の論文をまとめた100ページ超の報告書を書かねばならなくて,久しぶりにlatexを使っている.これとemacsのペだと大変に気持ちよく書ける.ちなみに一月ほど前は諸般の事情からマイクロソフトという会社のワープロソフトを使わざるをえなかったのだが,これはかなりストレスだった.
今回はMacintoshの上でTeXShopという補助的なソフトを用いてlatexのコンパイルを行っている.いくつかの発見をしたので書いておく.
jpeg画像をincludegraphicsで取り込もうとすると,サイズを決めるbounding boxというのがないのでだめと言われる.本センター助手の鈴木聡さんからebbというコマンドの存在を教えてもらう.これは
ebb xxx.jpg
とやると,xxx.bbというのを吐き出す.この中身は,
%%BoundingBox: 0 0 426 266
というような記述を含む数行のテキストファイルだ.これを画像ファイルと同じところにおいてlatexでコンパイルすると,しっかり通る,という話しだ.
しかしながらやっても通らない.そこで調べてみると,graphicxパッケージのオプションが違っていることがわかった.
¥usepackage[dvips]{graphicx}
となっていたのを
¥usepackage[dvipdfm]{graphicx}
としないとだめなようだ(ここの情報による).
次の発見はlabel-refの問題.これはTeXShopでのみ起こるとかいうのだが,1つのセクションに複数のlabelをつけると,refで引いたときにみんな同じになってしまう(そのセクションの番号と一緒!).これは正直驚きだった.こういう手間がいらないのでtexを使っているのに,こんなことが生じるとはとあきれていた.これもネットで検索すると驚きの解決法が載っていた.図表のcaptionの中にlabelを書くというものだ.嘘でしょ,と思いながらもやってみると,きれいに番号が振られる.うーん,どうなっているんだろうか.またどうやってこんなことを発見できるのだろうか.ちなみに情報源はここです.
500件超の文献リストファイルがあるので,BIBCompanionというものを使ってみた.とても感じよく使えていたのだが,ある日からこれが起動しなくなった.というか,自分のbibファイルを読み込もうとすると,異常終了してしまう.これは理由がわからず.
2009/2/25
今日,マッスル・ミュージカルというのを始めて見に行った.何となくは知っていて,おもしろそうだなとは思っていたけど,今まで行ったことはなかった.知り合いの人のご好意で今日は招待客オンリーという公演に行ってきました.
いやぁ,すごいですよ.観たことない,といっても他のタイプのものも観たことないから,あまり意味がないけど,
- 身体技術:いったいどうやったらあんなふうに体が動くわけ,
- スピード:曲芸的なものも多く一瞬サーカスかと思うがこのスピードはサーカスにはないと思う,
- 舞台装置:あまり他を知らないけど,かなり印象的だと思う,
- ノリ:会場とすごい一体感があるんだよね(自分も手が痛くなるほど手拍手していた),
などなどだ.
しかし何にもまして,もっともグッと来るのはやはり出演者一人一人が持つ強烈な情熱だ.笑顔の中に強烈な集中力と情熱が感じられる.ああいう笑顔は日常ではまず見たことがない.すごい鍛錬から作り上げられた自信と,舞台人としての観客に対する思いとが一緒になった,すばらしい表情を出演者全員がしていた.これは正直打たれます.
ぜひ見に行くことを勧めます.場所は公園通りをずっと上がっていったところ.
2009/2/23
TBSの情熱大陸という番組で,こち亀の作者の秋本治さんが出ていた.こち亀はものすごいマニアというわけではないが,中学時代とかは連載で読んでいたような気がするし,数年前までは娘と共同で主に100巻以降の単行本を数十冊はそろえていた.
単行本(といってもなんていうの特別に出るようなやつ)の最後に知り合いの人たちが秋本さんについてのエピソードなどを紹介するのがある部分があるのだが,これを読むと,「秋本先生はまじめ,やさしい」と誰でも語っている.両津勘吉というキャラクタの生みの親が,まじめで,優しいというのはなかなか考えがたい.
しかしテレビを見て,本当にその通りの人で驚いた.まじめさというのは,まさにサラリーマン的にそうだ.朝の8時55分にスタジオに入って,アシスタントのみんなに丁寧に挨拶をし,9時から全員で仕事に取りかかる.12時になると一斉に「はい昼食」という感じで休みに入り,夜の7時まで仕事をして終わる.優しさというのは,アシスタントたちへの話しかけ方からわかる.威圧的な感じが全くしない.おそらくみんな年下だろうけど,とても丁寧な言い方をしている.あと,おしゃれだね.
とにかく,両津勘吉のイメージは秋本さんにはかけらもない.正直驚いた.
でも,番組自体はもう少しつっこんでほしかったと思う.両津のあのものすごいマニアックな習性(特にフィギュア,兵器を含む軍事一般,賭け事,乗り物(特に電車)),出てくる女性のセクシーさ,そこらあたりはどういう精神から生み出されているのかを是非聞いてほしかったなぁ.
2009/2/20
わけあってネットで言語隠蔽効果の論文を探していたら,おもしろい記事を見つけた.これはエキスパートレベルのゴルファーに5分程度自分のショットについての述べてもらうと,その後成績ががた落ちになるという話しだ.これはエキスパートのレベルで顕著であり,ノービスでは別に悪くなるわけでもないという(むろん良くなるわけでもない).
この研究を行ったのは,スコットランドにあるSt Andrews UniversityのMichael Anderson教授とのこと.記事の中では,この影響を言語隠蔽効果によって説明していた.さて,諏訪さんはなんていうのかな.
ちなみにSt Andrews と言えば,全英オープンが開かれるゴルフ場がある場所ですよね.
2009/2/14
東急百貨店東横店(いわゆる渋谷駅)の地下の酒屋は品揃えがよいと思う。俺が好きな系統の日本酒が数多く置いてある。よって近辺を夕方に通るときにはここによって1本買っていくことになっている。前の記事で書いたように、今日はタワーレコードに行ったので、この酒屋に行った。
さて、今日は込みかたが半端ではない。レジのかなり後方に「ここが最後尾」というプラカードを持った人までいる。歳末に来たときはこんな感じだったのだけど、なんで?ということで、店の人間に聞いたところ「バレンタインだから」という。はあ、なるほどチョコじゃなくて、酒をあげるわけね。確かにレジの前に並んでいる10人以上の中で男はオレともう一人しかない。これは確かにふつうの日の酒屋の光景ではない。
お酒をあげるというのは、本当に好きな人になんだろうなと思った。そう思ってみると、なんとなく幸せそうな顔をした女性が多いような気がする。酒は高いから義理というわけにはいかんよね。店もなんとか入とか言う数千円のものを売って、「残り何本」とか言っていた。お幸せに。
こういう状況なので惨めな気持ちがしてきた。しかし女性も自分チョコ(っていうんだっっけ)といって、自分が食べるチョコをバレンタインに買うそうな。ということで、オレも自分酒買いました。ちなみに【開運無濾過純米】、【鶴齢】を買った。これらはほんとうまいよ。
2009/2/14
1週間前くらいに採点の合間にボーとしていたら、突然頭の中で音楽がなり始めた.とても好きだった曲なのだが、なぜか思い出せず、しばらく考えていたら「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲だった.それ以来、どうしても聞きたくなっていた.とうことで本日、試験監督終了後に渋谷のタワーレコードに行ってきた.あるわ、あるわ、ベーム、クライバー、バレンボイム、サバリッシュ、フルトベングラー・・・などなど.安いのは3000円台前半、高いのは7000円台.ニルソンが好きなのだが、ベームのは高すぎるということで、サバリッシュにした。
それから、妻がのだめのファンでのだめのCDをずっと買っている。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲がこのCDの3に入っているのだが、なぜか第1楽章しか入っていない。残りも聞きたいという話しを聞いていたので、チャイコフスキーコーナーに行く。これは「あるわ、あるわ」ではすまないくらいある。数えていないけど優に30以上のアルバムが並ぶ。最近テレビで聞いて、とてもいい印象を持った庄司さやかさんのもあった。またズッカーマン(確かのだめのCDはこれ)とか、パールマンとか、いわゆるというのもあった。まよっていろいろと手に取っていると、なんとなんとハイフェッツのがある。信じられない。もう聞けないと思っていた。
実は小学校6年のときにクラッシック音楽を聴くのが好きになった。最初は母親が若い頃買っていたレコードを聴いていた。当然、いわゆる名曲から入ったわけで、バイオリン協奏曲といえばベートーベンとか、メンデルスゾーンとか、そしてチャイコフスキーとなる。そのとき聞いたのがハイフェッツ。むろん他の演奏家のを聞くこともなかったので、これだけおそらく数百回は聞いたと思う。
どこかのブログに書いたような気もするが、こういう初体験は抜きがたい思いを残す。それ以来、いろいろな人のを聞いたけど、やはりハイフェッツが原型にあるので、どれを聞いても違和感が強い。とにかくスピードが全然違う。加えてめちゃめちゃに正確で丁寧。またリズミックというのか、跳ねるような感じで音が出てくる。独特なのかもしれないけど、やはりこれじゃないとだめ。なんか、何かに似ている。
というわけで今晩は幸せだ。
2009/2/12
答案の採点を終えた.提出もした.これで今期はすべて完了.
さてこれをやっていると自分の講義のまずい点も見えてくる.今回は講義タイトルは正確ではないが、認知科学入門みたいな講義の採点をやっていてまずい点に気がついた。
講義の前半あたりでは表象の生成について、知覚、記憶分野で、人間の情報処理がどれだけ偏っているか、不完全か、そしてそれを補うために何をしているかということを、
- change blindness、選択的注意、
- 構成的記憶、目撃者証言、協同想起、
- 類推での仮説的ベースの生成、
をを題材として話している.
答案を見ていると個々のことがらについての理解はかなりのレベルに達していると思うが、これを生成という観点からまとめあげることがうまくできていない人が多いことに気づいた.
次回からは、
- 情報の取得時におけるゆがみ、生成、
- 情報の保持時におけるゆがみ、生成、
- 情報の利用時におけるゆがみ、生成、
という形でしっかりと伝える必要があることを認識した次第だ.
こういうことを繰り返しながら、かれこれこの講義を5年くらいやっている.自分で言うのもなんだが、恐ろしくよくなってきていると思う.逆を言えば、5年前の学生たちにはごめんなさいと言わねばならない.
2009/2/12
緊急な用事で、ビデオカメラを久しぶりに買った.結局買ったのはビクターのgzhd320という機種だ。驚くこといろいろ.
- 安い.10万円くらいだ.以前、自分が買っていたのはなんだかんだで25万くらいしたのにくらべると、40%程度となっており、正直驚き.
- 軽い.正直、こんなに軽いとかえってブレたりしないだろうかと不安になるくらいに軽い.320gとか.グラム単価で言うともしかして昔から一定なのかもしれない.
- きれい.フルハイビジョンということで、ものすごくきれいだ.顔のアップなどをすると、ちょっとヤバいです.毛穴は見えないけど、普通に鏡で見ているときには気づかないシミとかが見えてしまう.
こういうのを見ると、技術革新というのは本当に恐ろしいくらいのレベルだと思う.技術者というのはやはり尊敬だよね.
2009/2/11
答案の採点も大詰めを迎えた.今まで、レポート、試験答案を含めて、約300くらいを終えた。あと50くらい。辛いけど、一所懸命書いてくれた答案なので、こちらもがんばるしかない.
毎年思うのだが、ある程度の分量を書いてもらう論述形式の試験を行うと、書いた量と成績はかなり相関が高い.取り上げた問題自体についての論述だけだとほどほどの点になる.これにその問題の背景や展開、インプリケーションなどを書くと当然長くなる.で、そうしたことまで書いた答案は当然点数が良くなる.そういう意味で分量と成績の相関は当たり前ということになるのかもしれない.
これが終わると入試の試験監督が待っている.
2009/2/10
日本でも裁判員制度がいよいよ始まる.詳しいことはよく知らないが,全体としてみれば裁判官が一人で決定を下すよりもよい決定が出来ると思う.日本の刑事裁判では一度起訴されたら無罪になる確率は1%以下である.これはむろん警察や検察がしっかりとした証拠を集めて起訴していることを示すのだろうが,検察、警察,裁判所が一体化している危険性をも示唆する.一般の人が裁判に加わることにより,こうした危険性を減ずる可能性が拡大すると思う.
と考えてきたのだが,昨日「ニューオーリンズ・トライアル」という映画を見て,恐ろしい可能性に気づかされた.この映画は危険性が極めて高い銃により殺害された人の家族が、その銃の製造メーカを訴えることから始まる.銃メーカーはこれが有罪とされてはたまらない.そこで特別な会社と契約し,自分たちに有利な判断をしてくれる陪審員を集めるとともに、不利な判断をしそうな陪審員を排除,あるいは恫喝させる.こういう恐ろしい話だ.映画自体はハッピーエンドなんだけどね.
アメリカに本当にこういう陪審員ビジネスがあるのかどうかは知らない.所詮映画ということになるのかもしれない.ただ、O. J. シンプソンの事件などでも知られているように,誰を陪審員にするかで壮絶な戦いが、検察と弁護側で行われているのは事実だ.
日本の司法制度はよく知らないが,こうしたことが起こる危険性はどれほど考慮に入れられているのだろうか.おかしな陪審員ビジネスがはびこる可能性はないのだろうか.
こうやって考えると他にもいろいろと気になることがある.たとえば、裁判員として参加した人が有罪とされた人に逆恨みされ、危害を加えられるなどという可能性はないのだろうか.特に、暴力団など組織的な犯罪を行う集団の裁判ではかなり危ないことが生じるかもしれない.
2009/2/9
MS-Wordはよほど短いもの以外は使わないようにしているが、これで書かれた文書の数字とアルファベットのみを半角に変換しなければならなくなった.メニューの【書式】ー>【文字種の変換】をやると、全角を半角にするというものがあるので喜んでやったところ、カタカナもすべて半角になってしまった.これは困る.
オプションのようなものは存在せず、わからないので結局ネットで検索した.で簡単な方法をここで発見した.これを見ればわかるのだが、要するに、
- 検索で【ワイルドカードを使う】にチェックを入れる
- [0-9A-z]とする(むろん文字は全角).
- 【検索結果をすべてハイライト表示する】にチェックを入れる
- 【すべて検索】をクリックする
- その後に【書式】ー>【文字種の変換】で【半角に変換】を選ぶ
これで終了.なるほどね.
2009/2/8
今年もついに卒論の最終版がでてきた.
- 擬音語、擬態語の処理様式;擬音語は音声処理で、擬態語は視覚処理か?
- バナー広告の好感度と再認に与える接触回数の効果:ナチュラルな環境下でバナーを提示した場合、接触の回数により好感度はどのように変化するか.またそれはそもそもの高感度とどのように関係するか。
- 批判的思考(特に前後論法克服)のための介入:批判的思考を事例、原則、原理などの各レベルで教えてみると、その後の成績は向上するか。
- 大学生のレポート観:大学生はレポートに対してどんな知識を持っているのだろうか.それは学年があがるにつれて向上するものなのだろうか.また明示的な教育を施す故で変化するのだろうか.
- 空間課題の解決におけるジェスチャーと視点:空間的な課題を行うときに視点を明示的に提示することにより、パフォーマンスにどのような違いがあるのか、また解決中のジェスチャーにどれほどの違いがでるのか.
なかなか面白い展開があった.いくつかはまとめてみようと思っている.
4の研究だけちょっと述べると、書き方の作法、レポートの構造、取り上げる問題、データの扱い、この4つの分野について20−30程度の質問を行い、得点化した.その結果、レポートの構造についての知識の欠落が顕著であること、普通に1年間を送ってもこれは改善されないこと、レポートのための特別な受容を半期受ければ大幅に向上すること、専攻によって違いがでてくること(心理学はデータの部分の成績が向上した)、などがわかった.これは今後の研究でもいろいろと使えるものになると思う.
2009/2/7
青山学院大学ヒューマンイノベーション研究センターの鈴木宏昭と申します.センターのブログが開設されたので、これから研究や教育についてはこちらをメインにして使っていこうと思います.
研究領域は認知科学で、特に人間の思考や学習の問題を取り上げてきました.ここ10年くらいは、創発システムとして人間を捉えることを行ってきました.創発にはいろいろな考え方がありますが,私は非常に緩く「あらかじめ用意されていないものが生み出されること」と考えています.なぜそうしたことが起こるかを解く鍵は,インタラクションにあると考えています.ここでインタラクションとは,
- 取り組んでいる問題に関する知識とそれ以外の分野の知識ー>アナロジー
- 自分が頭の中で考えていることと環境の中の情報ー>外的資源,アフォーダンス
- 意識的な処理と無意識的な処理ー>潜在と顕在
- 今の自分と過去の自分ー>リフレクション
などを指します.
現在所属している、青山学院大学大学院社会情報学研究科ヒューマンイノベーションコース,および同文学部教育学科の担当授業では、上記に関わる問題を取り上げ,掘り下げる努力をしています.
なおだいぶ前からブログをやっており,それらはここにありますが、近々廃止されるかもしれません.これらをこちらに移そうかと考えています.また日々の雑念を書いているブログがvox上にあります.
どうぞよろしく.
2008/12/1
千葉大学の言語教育センターというところの先生からの依頼で,我々のレポートライティングプロジェクトの成果について話してきた.内容は,以下の通り.
研究の動機:レポートライティング力を高め,民主主義社会を担う人材の育成する
学生の現状:レポートと作文の区別がつかない.レポートに関する誤概念を持っている.
レポート評価の基準:Toulminの図式が有効である.
Peer Review:学生同士でレビューをしあうことにより,レポートの質が向上する.
問題発見のための批判的読み:文献に感情的なタグをつけたマーキングを行うことで批判的読みが促進され,その文献に対するまとまった意見が出やすくなる.
ジグソー学習:ジグソー法を用いる中で起こる役割交替が議論の質を高め,自分が取り上げるレポートのトピックの質が向上する.
1時間半くらい話した後,いろいろディスカッションをしていたらあっという間に3時間経過.
千葉大学では、言語教育センターが「コミュニケーションリテラシー科目」というのを用意し,
文章表現演習
口頭表現演習
対人コミュニケーション
という3つの科目を1年生向けに開講しているそうだ.ここの科目を見ると,論理だけでなく、説得,プラグマティクスなどいろいろと面白い要素が含まれていることがわかる.
2008/11/22
教職関連の授業である授業を行っている.パソコンのある部屋で行っているのだが,驚くほど集中しない.おそらく聴いているのは15人くらいの中の数人程度ではないだろうか.こういう学生が教職に就く可能性があるというのは驚くべきことだが,これをいちいち注意してまわるというわけにも行かない.
さて今回は趣向を変えて協調を用いた授業に構成し直してみた.テーマは学力低下.
学力低下について知っていること,その原因とされていること,それらについての自らの考えをまとめる(20分).
各々が書いたことを持ち寄りグループでディスカッションする(15分).
ディスカッションの内容を代表に報告させ,若干の解説を行う(10分).
PISA調査問題を解かせる(30分).
問題の特徴についてのディスカッション(10分).
この問題を解くための学力を育成する教育方法についてまとめてくる(宿題).
PISA調査の目的,解答の評価についての解説(30分)
グループディスカッション(30分)
報告と総括(30分)
というのが2回分のメニューだ.
1−5を授業時間中に行った段階であるが,非常にのりがよい.よく考えた答えも出てくる.今までとは全く違う学生の姿が現れてきた.うーーん.
2008/10/28
名古屋大学情報学研究科の三輪さんに呼ばれて,大学院で午後講義を行ってきた.10年くらい前に集中講義を行ったことがあり,講義は二度目だ.今回は名城線の名古屋大学前という駅があり,大変に便利だった.
いつもの創発認知の話の中の,
生成性(change blindness, false memory, analogy)
冗長性(確率推論,条件文推論,発達)
を取り上げて話した.話し方があまりよくなかったのか,自分も学生もあまりテンションが上がらなかった(ように思う・・・).
その後に八事の居酒屋で,同研究科の斉藤さん,川口さん,三輪さん,川合さん,および院生の方たちと一緒に飲んだ.話しはいろいろと盛り上がり(というか一人で酔っぱらって盛り上がった可能性もあり),伝統的認知科学の意義,潜在・無意識研究,などなど,楽しい会話をすることが出来た.新しいタイプの研究の方法論を開発する必要があることを強く自覚する.いつも思っていることなのだが,平均に巻き込まれることなく,個体の揺らぎと変化をしっかりと科学的に捉えるということだ.
帰りの電車があるので飲み会は8時くらいにお開き.その後まだ飲み足りずカップ酒2つ買い込んで新幹線グリーン車に乗車.音楽を聴きながらゆったりと考え,その後眠り,無事品川着.
2008/10/16
教育,学習の分野では,協調学習というのがキーワードだ.つまり教え込むのではなく,学習者同士がディスカッションをしたりしながら学ばせようという話だ.
人と人のインタラクションの研究というのは,正直あまり興味が持てない.くだらないからとか,そういうのではなく,好きじゃないという嗜好の問題だ.
ただ大学教育に関係する仕事をしているので,協調学習を無視するわけにも行かず,何年も前からとある授業でこれを頻繁に取り入れている.その中の1つに,あるレポートを書かせ,それをグループの全員に渡し,相互にコメントしあうという活動がある.そしてそのコメントを元にもう1度レポートを書き直す.これで成績が伸びるだろうということが問題になる.しかしここで疑問が生じる.物事をよくわからないもの同士が,コメントしたり,ディスカッションをしたりしても,逆に有害なケースもあるのではないかということだ.
実際やってみると,2度目は1度目よりもよいレポートになる.学生同士のコメントを詳しく分析すると,なかなかよいことが書いてある.だいたい全体のコメントの3/4くらいはかなり的確なコメントになっている.本当にひどいコメントというのはほとんどない.
こういうのは何となく不思議な気になるが,考えてみればけっこう当たり前ではないかと思った.学問を例にとる.どういう分野の研究(実証学問ね)でも100年前と現在を比べれば,遙かに進歩しているはずだ.科学をやっているものならば,今の知識の状態のまま,100年前にスリップできれば,と思ったことが1度はあるはずだ.こうしてみると,100年前の学者たちは,タイムスリップした我々から見れば愚かというか,レベルが低いことになる.ところが,よく考えてみると,そうした人たちが切磋琢磨をした結果,100年後の私たちがいるわけである.つまりレベルの劣る人間同士のインタラクションにより,重要な新しいことが生み出されてきているということになるわけだ.
こう考えてみれば協調学習により成績が伸びるというのは,ある意味当たり前になるのではないかと思った次第.
2008/5/3
精神分析というのは通常の心理学教育を受けてきた人にはずいぶんと距離感、拒否感があると思う.端的に言ってしまえば、無意識とか、スーパーエゴとか、タナトスとか、そこらへんは実験的にコントロールできないだろう、というのが根本にあると思う.
確かにそういう慎重さは必要だと思うが、実験の枠組みに載らないものはすべて存在しないかのように扱うというのは、別の意味でまた慎重さに欠ける態度と言わざるを得ないだろう.またそもそも認知心理学などがやってきたことの多くは、無意識的処理に関わることであり、その意味では無意識の存在証明はすんでいると言ってもよい(むろんフロイド的な意味ではないが)。
こんなことをいろいろと考えている中で、最近青山学院大学に移籍された中野昌宏さんと話す機会を得た.彼とは昨年の認知科学会の後に服部さんや山岸さんと三人で飲んだのが最初だった.今回は2人でということで、フロイトやラカンの話をいろいろと聞かせてもらった.
その中で印象的だったのは、フロイト理論は身体論とも深いつながりがある、という指摘だった.フロイトというと、頭の中にいろいろな小人のようなものを作りまくり、すべて頭蓋骨の内側で完結させようとしたイメージがあった.しかし無意識という回路を通して身体的なものとの深いつながりを、理性の中に持ち込んだのがフロイトというわけだ(これは中野さん自身が言ったことなのか、オレの推論なのかは定かではない)。これはダマシオなどの脳科学者の主張とも整合的な部分がある魅力的な解釈だ.
もう1つ面白かったのは、ラカンにおいてはフロイトが仮定した様々な内的(?)機構は、クライアントの新しい物語作りを促進するための装置である、という指摘だ.つまり何か本当の真実や、因果関係を明らかにするための概念装置というよりは、1つの物語の中に閉じ込められてしまっているクライアントに、別の物語の作らせるための、単なるあらすじにすぎないというわけだ.
よく考えれば、これらの2つの発見は矛盾する部分もあるのだが、どちらも面白いと思う.
ちなみにラカンというのは難解で有名で、そういうこともあり背表紙以外見たことはないのだが、慣れれば読めるとのこと。しかし慣れている時間はないというと、ジジェクという人の本を薦められた.すぐにということはないかもしれないが、読んでみよう.
2008/4/30
先日大学院のゼミを行った.私の担当する社会情報学研究科ヒューマンイノベーションコース以外からも、文学研究科、経済学研究科、および他大学からの参加者などもいて、なかなかにぎやかな授業となった.さてここで三宅君@東大情報学環から面白い質問がきた.その前後の経緯から話すと、創発論者なのでとにかくきっちりと教え込むというようなことは嫌いだし、間違っていると思う、という発言を私がしたことから始まる.三宅君は教え込むということが本当に意味がないことなのかをかなりいい感じで聞いてきてくれた.
まずここで考えなければならないのは、学習がどの段階の話をやっているかということだ.本当の初期、あるいは初心者レベルの話であるのならば、ある程度の教え込みというのも効果があるのかもしれない.しかし、学習が進んだ段階で獲得すべき知識は、教えるべき先生もよくわからない、あるいはうまく表現できない、仮にしても有効ではない可能性が高いのではないだろうか.
こういう思いを強く持っていた私が言ったことは、
ある程度まで学習が進んだレベルでは、
状況(の変化)に対する敏感性、
そこからの調整
に関するスキルではないか、というものであった。つまり言葉で伝えられるようなレベル、ルール化して伝達可能な知識というのはおよそ初期レベルの話であり、そこからは外界の絶えざる変化、身体がもたらす絶えざる擾乱、こうしたものをうまく検知し、そこからの調整のための能力ではないかということだ.同じ場面は二度と現れない。いつでも少しずつ異なる.環境自体もそうだし、我々自身も絶えず進歩なり、劣化なりしているわけだ.こうした状況下で安定したパフォーマンスを残すために必要なことをルール化することはできないのではないか.事前にすべての状況を予測できないということもあるだろうし、身体に関わることは極めて個別性が高く、万人(とまではいかなくても多くの人)に共通する事柄などはほとんどないからというのがその理由だ.
こうしたことを持ち出すのは、自分が最近大西君、竹葉さんとやった研究がベースになっている.この研究では単純作業を2000回以上もやらせたときのパフォーマンスの向上、スランプの脱出などがテーマになっている.詳しいことはこの論文を読んでもらうしかないのだが、長く美しい指を持つこの被験者のスランプの原因はまさにその指にあったし、そこからの脱出はその長く美しい指に対する処置であったからだ.これはなかなか一般化できないスランプ克服法だ.加えて、長い指ならば必ず彼女が陥ったタイプのスランプに遭遇するかと言えばそうとも言えない.それは彼女なりの作業方法の中でのみ生じる問題であり、他の作業方法の中では生じない可能性が高いからだ.
さて、状況に対する敏感性、および調整というのは、聞く人が聞けば、そんなのGibson、佐々木正人らの生態心理学者がずっと言い続けてきたことだ、という反応がくると思う.その通りだ.本人もゼミの場でそれを言いながら、まさにオレはGibsonianだ、と感じた.また学習のレベルとそこでの獲得すべき知識に関して、すなわち初心者レベルはルールでもOKだけど、その先の知識は全くルール化できないというのは、認知科学批判で有名なヒューバート・ドレイファスがチェスを題材して30年ほど前に語ったことと同じである.個人的な話で言えば、こういうことがすらすら出てくるようになった自分がうれしい.以前に読んだこと、そしてそのときにはまともに頭に入らずに、どちらかと言えば反感を持っていたことに対して、今は自らの研究を通して深いレベルで理解できるようになったというのがうれしいというわけだ.
さてゼミでの三宅君はさらに、状況敏感性や調整能力自体を教えることはできないのか、またメタ化、抽象化することにより、それら熟達者の知恵を伝えることはできないのか、と突っ込んできた.すばらしい突っ込みだと思う.
さてこれに関するオレの答えは、「わからない」だ。そういう可能性がゼロなのか、多少はあるのか、今の技術ではだめなのか、ここらへんは実証的な問題になると思う.ただ簡単でないのだけは確かだ.このやり取りの中で思い出したのは、佐伯胖先生と坂元昴先生が大昔に行った対談だ.そこでは教育工学者の坂元先生がとにかく教える方法というのを考えだしたい、教えることができないなどという消極的な態度ではまずいということを主張し、もし認知研究により認知、学習のプロセスが詳細なレベルでわかるのならば、それを教えることは可能ではないかという問いを佐伯先生に投げかけた.佐伯先生の答えはこれまた面白くて、「誰かを風邪にさせようとして、熱を出す薬を飲ませ、咳が出る薬ものませ、くしゃみや鼻水を誘発する薬を飲ませたとする.そして事実そのようになったとする.しかしそれは風邪をひくということとは異なるはずだ」というものだった。つまり外見的な、行動レベルの事柄でどれほどそれらしく振る舞わせたとしても、人間の知識というのは理解や納得、その人なりの必然性というものから生み出されるものなのだということ.この議論は実はサールの中国語の部屋の論文よりも前に行われているはずだが、まさにサールが主張したかったポイントが教育と学習という文脈でなされているところが面白い.ゼミの中ではこんな話をしながら楽しく議論が進んだ.
これとうっすらと関連するのが、最近朝日新聞のBeに載った福島大学陸上部の監督の話だ.この大学はオリンピック候補が何人も出る、陸上のCOEみたいなところだ.で、この監督もはじめは根性、気合いだけでやっていたらしいが、アメリカでカール・ルイスのコーチをしていた人に師事し、何をすべきかを学んだらしい.しかしながらこれを部員たちになかなか伝えることができないまま何年も何年も苦労していたとか.ところがある年にすばらしい選手に出会い、彼女とのやり取りの中で、ついに伝えたいことを伝えられるようになったという話だ.これは野中郁次郎のSECIモデルのようにも思える.暗黙知としてこの監督が持っていた知識が優秀な選手との出会いにより共同化され、それがきっかけとなって一般化された表出が起きている.ちなみに「ポン、ピュン、ラン」という言葉(オノマトペ)に集約されるのだそうだ(このオノマトペを形式化と呼ぶのはかなり抵抗があるので、一般化された表出としておいた)。ただここでも大事なのは「ポン、ピュン、ラン」というのは、素人や初心者にはやはりうまく通じないのではないかということだ.
2008/3/13
3月9日から11日まで,注意と知覚研究会が金沢の駅前のホテルで開催されたので参加してきた.この研究会は日本心理学会の分科会という位置づけになっており,東大の横澤さんが主査をしている.基本的には高次知覚分野の若手の発表が中心となる.
知り合いはこの分野にはほとんどいないのだが,斎木君,喜多君,高橋君などに会えた.皆さん一様に「なんでいるの?」という反応だっだけど.なぜ行ったかといえば,理由は簡単で,問題解決の研究を知覚や運動という観点からとらえ直してみたいという思いがあるからだ.問題解決者は様々な行為を行い,そこから得られる情報をまた知覚して,評価して,また行為を行う.いわゆるNeisserの三角形は問題解決においても十分に成り立つわけだ.しかしこうした観点,ダイナミックなサイクル,ループとして問題解決をとらえる試みはまだ十分とはいえない.
こうしたわけで知覚研究に接近せねばならないのだが,そんな研究はほとんどやったことがないのでよくわからない.またこの分野は厳密科学の色彩が非常に強く,オレのやってきたような話とはずいぶんと異なる.またこの分野の発展は,計測機器の進歩,脳科学との共同により,急激である.よって,突然その種の論文を読んでもよくわからないことも多い.
こういう場合はとにかく口頭の発表を聞くというのが一番簡単だ.わからないところは聞けばいいわけだし,研究のモチベーションをわかりやすく語ってくれる.というわけで行きました.発表20分質疑10分としっかりと話を聞けること,またレベルの高い発表があったことでかなり満足度が高い.また金沢に行く前にかなりハードな飲み方をしたこともあり,ホテルと駅の間(数分)を往復しただけで,金沢の町は全く見ることがなかった.夜もどこにも出かけず12時には寝ていたのだが,高橋君には「昨日は片町ですか」などという当然の質問があった.
気になったことを以下列挙.
- 注意の瞬き(attentional blink): はじめの刺激から300msに刺激を提示すると後の刺激が認知されにくくなる
- 注意の捕捉:あることに注意が向けられるメカニズム(トップダウンvs.ボトムアップ)
- 注意資源の半球間独立と相互作用:注意資源は左右半球である程度まで独立に存在する
- 注意対象と同じ知覚属性を持つ対象は認知されやすい(inattentional blindnessでも検知されやすくなる).
- 注意は注意を向けた対象への処理を増進するのではなく,向けていない対象への処理を抑制する.
- 興味の強さと眼球運動:関心の強いものについては最初の数秒の間に好きなもの(結果として選択するもの)をより長く見る傾向がある.そこから逆を見て最後は選んだものの方をよく見る.
- 反転めがね:運動を開始するまでの時間と,運動自体の時間が乖離する.
- Peripersonal space:手の届く範囲では身体の下方の刺激に対する反応が,またそれ以上遠くの場合には上方の刺激に対する反応が迅速になされる.
- ideomotor:目的に応じて運動が開始される.手の動きにより曖昧な運動の方向知覚が影響されるか.手の動きが運動の方向とマッチしないと仮現運動が知覚されにくくなる.
- 反応履歴による時間作成課題のパフォーマンスの変化:競合した反応の場合には長い時間が作成された.
- 感情ストループ課題
- 刺激画像(顔)視線の方向に物体が存在すると知覚が促進される.矢印ではその効果は減少する.
- 無意識の同調:速い人の動きを見せると反応が早くなる.人でない場合はその効果はない.
- 商品の写真はなぜ真は斜め前からとるか:斜め前からの写真はずらしたときにそのずれを検知しにくい(つまり多くの側面からの情報を提供する)
- 視覚探索で「ない」と判断するときの時間はベイズに完全に従った形になる(事前確率と尤度を考慮する)
- RSVP(200ms程度)では内容語のみに注意を払い,そこから文脈の形成が起こるようだ(助詞,助動詞を&に置き換えてもほとんど気づかない).
- カテゴリカル知覚:カテゴリー境界をまたぐ事例はそうでないものの弁別より容易.言語化を抑制するとこの効果が減少する.
などなど.
2008/3/5
NECの広報誌の「コンセンサス」という冊子に短いエッセー「認知科学者の視点」を書いていた.1000字程度という今までに書いたことのない種類,分量での原稿だったので,いろいろと考えるところがあった.読者が息抜きに読むものなので,
- あまり堅くなく,
- とにかくコンパクトに,
- わかりやすく,
- 何となく得したという気分にさせる,
ということが至上命題だ.はじめの頃は分量の2倍程度書いてしまい,どうやって削るのかを苦労していたのだが,最後の方は「まだ書けるのでもう少し付け加えてくれ」という,という要請が編集部から来るようになった.まあ進歩したということだろうか.
2ヶ月に1回,12回分書いたのだが,今回で無事終了ということになった.これはWisdomというサイト(?)にもあるのでInternet上で見られます.ここにあるので,よろしかったらどうぞ.
2008/3/3
3月2日の朝日新聞の「学ぶ」という記事に,都留文科大学の福田教授の話が載っていてなるほどと思った.この中でとても強烈だったのはOECDの事務総長が日本の教育に対して「多くの国の労働市場からすでに消えつつある種類の仕事に適した人材育成」をしているというコメントをしたという.これほど強烈な批判はないだろうねぇ.
別に中国と競争しようというわけではないのだが,義務教育レベルの読み書き算ができる程度の能力であれば,中国には日本人の10−100分の1の給料で働く人たちがおおよそ8,9億人もいる.まともな企業であれば単純な労働の生産拠点は中国に移すに決まっている.こうなれば(もうなっているけど),日本国内では大量の失業者が出ることは必至だ.要するに今の教育やっていったら,日本人を食わせていくことができないと言うことだ.
脱線するけど,日本型の詰め込みのような教育は韓国ではもっとすごいらしい.オレの研究室に韓国の延世大学という超一流の大学からの留学生がなぜか来ていた.彼女(本当に優秀でした)の話によると,何しろ出身大学でその後がほぼ決まる社会らしく,80%以上の大学進学率だという(おそらく世界一だよね).韓国の高校は11時半まで(むろん夜のですよ),学校で勉強させるらしい.で大学生になった人たちに共通する悪夢というのがあるという.それは「自分はまだ高校生だ」という夢だそうだ.ものすごいいやな気分になり,うなされて,起きて「ああ,もう自分は大学生なんだ」と安心するらしい.
韓国はさておき,日本も何とかしないといけないわけだが,暗いネタだけではない.有名国立,私立あたりとか,一部の公立(京都など)では新しい時代に向けた学力の育成を始めている.やっていることは,つまり大学の卒業研究のようなことをだ.筑駒を卒業した1年生と話したら仰天するような研究を高校の卒論でやっている.卒業研究の早慶戦という記事でも結構すごい話が出ていた.またこうした教育の結果として大学への進学実績もあがるらしい(京都の話).
2008/2/28
少々古いのかもしれないけど、Bricolageというのはなかなかぐっとくる考え方だと思う。あり合わせのもので、それなりに創造的(というか新しい)なものを作り出してしまう、そうしたことを言う。オレが知っているのでいうと、Levi-Straussが野生の思考の中で取り上げたものだ。未開人たちが限られたりソースの中で、問題状況に対して適切なものを作り出してしまうことをいろいろと報告していた。
さて人間の認知というものを考えたときにも、そうしたことがいえる。特に進化との絡み、脳の構造との絡みで知性を考えるときにはBricolageというのは魅力的な考え方だ。進化は先読みしないので「俺らの種族(人間)はそのうち言語を使うようになるだろうから、関連する部位を進化させておこう」などということはできない。言語っぽいものが、あるいは言語の原初形式のようなものが身近でみられたときに、なんとかあり合わせの脳みそで言語らしきものを作り出したというのが実態のはずだ。これはまさにBricolageといえるでしょう。
Bricolageが生み出すもう一つの示唆は、昔のものはなくならないよ、というものだ。進化の中にはむろん退化というものあるわけで、以前使っていたものが必要なくなると、どんどん小さくなり、最後には消えてしまうようなこともある。しかし進化は不要になったものを遺伝子から消し去るわけではないらしい.3月2日の朝日の朝刊に載っていたけど,海に住むほ乳類は後ろ足,あるいはその進化の結果の腹びれが300万年前あたりで退化して全くなくなってしまったらしい.ところが,最近見つかったバンドウイルカにはこの腹びれがあるとか.ということは,遺伝子のレベルでは腹びれが今でも存在していると言うことだ.で,通常の場合はこの遺伝子の発現を抑制する何かが働いている可能性が高いという.なるほどね.
脳においては使えるものはどんどん使うというどん欲な方法でその機能を実現してきたために、同じことを行うのにいくつもの回路が存在する。発達や学習の初期に不器用な方法である課題を達成していたが、その後とてもエレガントな方法で達成できるようになったとする。こうした場合でも、元の不器用な方法は残る。なぜかと言えば、エレガントな方法がいつでも利用できるわけではないからだ。
たとえば足し算。10代くらいから30代くらいまでは2桁の足し算はほとんど即座に答えが出た(公文をやっていたわけではないけど)。しかし40代中盤くらいになるとこれが自信なくなってきた。あまりやらないから、頭の中のテーブルが壊れてきた、薄れてきたのだと思う。このとき、小学生あたりでやっていた筆算のやり方が退化してしまったら大変だ。しかし実際にはそういうことはなく、頭の中で筆算をイメージして桁ごとに足したりするようになった。
こういう冗長な処理システムというのはかっこは悪いけど、やはり頑健なのだ。進化という仕組みはこうしたbricolageを行う冗長性を持つシステムに有利に働いた可能性は高いのではないか。
2008/2/28
2月も終わりになって、昨年の夏休みにもがき苦しんだ(とまではいかないけど)論文が無事刊行された。
1つはスキルの熟達に関わるものだ。これはレゴブロックを使って簡単な形を作ることをひたすら繰り返して、その過程で何が起こるのかを詳細に分析するというものだ。数秒(これは熟達の最終期あたりだけど)で終わる課題を数千回行わせると、ものすごいことが起こる。とにかく見事、何やっているのかよくわからない、そのくらいうまくなる。このもんのすごいことをなんとか、客観的に、科学的に解明できないかというのが研究の出発点だ。
これはそもそも東工大の名誉教授で、退官後に中京大学で教鞭を執られた木村泉先生の猛烈にすごい研究に触発され始めたものだ。先生はミソサザイという折り紙を15万回ほど自分が被験者となって折り、この達成時間の分析をかれこれ7,8年前くらいの認知科学会で発表された。
一般に練習による遂行時間の減少は、練習のべき法則(the power law of practice)と呼ばれるものに従うことが知られている。練習回数、遂行時間の対数を軸としたグラフを書くと、右下がりのきれいな直線で近似できるのである。しかし、木村先生のデータはこの直線の上下をうねるような形で遂行時間が変移していた。
直感的にこれはすごいと思い、我が研究室でも細々と研究を続けてきた。6年前くらいの卒業生の竹谷さん、4年前くらいの卒業生の佐々木さんと、かなりの苦労を重ねて、知見を積み上げてきた。そして3年前の竹葉さんの驚くべき努力、そして大西君の見事なデータ解析力により、ようやく論文化する道筋が見えてきた。この研究は認知科学会で3回ほど発表した。この過程でさらにいろいろなことに気づき、昨年人工知能学会でスキルサイエンス特集というまさにドンぴしゃの企画がありこれの論文募集があったので、投稿した。
取り上げたことは「スランプとそこからの脱出」ということ。主張は
・スランプは単なる統計的な誤差ではありません、
・スランプは内的スキルとその実行環境とのミスマッチにより生じることがある、
という2点です。おもしろいです、おすすめです。ここにおいてあるので是非ご覧ください。
もう1つは全然違うネタで、大学生にまともなレポートを書かせるためにはどうしたらよいかというものです。これもかれこれ5,6年くらい前から手探りの状態で進めていたものです。そもそもまともなレポートとは何なのか、というこことがこの分野の研究の大きなテーマとなります。一般的にレポートは、
・問題
・主張
・論拠
からなるとされます。しかしこれだけではいくら何でも抽象的すぎてだめですよね。問題の意義とか、主張の範囲とか、論拠の妥当性などが、この図式には欠けているからです。じゃあ、自分で考えればいいんだけど、いくら無謀なオレでも「レポートとは・・・・だ」などと断言するというのもできず、悶々としていたんだけど、Toulminというつよーーい見方を見つけることができました(実はずっと前から知ってはいたんだけどそれをこの研究に関連づけることに気づかなかった)。彼は議論についての哲学的な検討を経て、
- 主張:まあ主張ですよ
- データ:主張の証拠です
- 保証:データが主張と関連しているかどうか
- 裏づけ:データと主張との関連についての一般的な保証
- 反論:対立仮説の検討
- 限定:主張の範囲の限定
という6つの要素が正当な議論には必要であることを論じた。
これはレポートにまさに通じる話で、というか論文にも丸ごと当てはまるような話なわけです。この基準を使えば、ある程度まで客観的にレポートを評価することが可能になるのではないかと考えたわけです。で、これが第一歩。
しかしこうした抽象度の高い理屈というのは、大学1年生あたりに事例1つ交えて話したくらいでは全然通用しない。ここで2つの方法がある。1つは、この図式を徹底的に練習させて身につけさせるというものだ。で、これは当然やる気が起きないので(ああ、オレがという意味ですよ)、なんとかもう少し無理なく身につけさせることはできないかと考えたわけですね。
そこで出てくるのが協調学習、Blogというわけです。このBlogにはいろいろと書いているのでこれ以上書かないけど、Blogやディスカッションを通した他者との交流を積極的に取り込むことにより、上のToulminの6つの要素が自然に(?)身につくのではないか、というわけです。そもそもToulminの図式は、議論という、他者との相互作用の場面で求められることであるわけで、その意味では他者との交流はこの図式の獲得の必須条件(とまではいえないけど)ではないかと考えたわけです。ということで、今までやってきたBlogをを用いた授業とか、グループディスカッションとかが、Toulmin+協調学習という中にきれいに納めることができると考え、論文にしたわけです。
出した先は、京都大学高等教育研究開発推進センター(何度書いても長すぎて途中を忘れる)の紀要です。なんで他大学の紀要になんて書くのかというと、昨年の3月にこのセンターが長年に渡って行ってきている「大学教育研究フォーラム」という学会というか、研究会があり、そこでBlogの話をしたことがきっかけになっています。発表後に、このセンターの松下さんから「紀要に書いてみないか」というお誘いがあり、せっかくということでお引き受けし、書いたわけです。でも依頼論文というわけではありません。査読もありました。で、その査読結果は今までいろいろ論文を書いてきたけど、こんなにほめられたことないよ、というくらいほめられて、1週間くらいテンションがあがりましたね。まだまだ展開していかないと,いわゆるおもしろい論文にはなりませんが,とりあえずの一歩です.
ここに載っているので興味のある人はご覧ください.
2008/2/13
“Rational animal, Irrational human”というタイトルでシンポジウムが開かれた。慶應大学のGCOE(グローバル・センター・オブ・エクセレンス)という、渡辺茂先生がヘッドを務める組織の主催だ。講演者の一人として呼ばれたので出かけてきました。初日は出られなくて、2日目の午後自分の講演から3日目のほぼ最後まで出席した。初日は渡辺先生と特に関連の深い動物関係の話が多かったようだ。
自分の発表はいつもこの頃やっている創発認知の話の中の、生成性と冗長性の話の前に、人間のirrationalityについての知見(演繹、類推、転移、洞察)の話を付け加えて、そこからコンピュータメタファーの問題につなげた。正直かなり苦しんだ。スライドは、数年前の国際ファジイ学会の時のものと、入来さんのシンポジウムの講演者として話した神経科学会のものを組み合わせたのだが、なかなかすっきりと行かず、いろいろな調整を行い、英文の原稿も含めて約10日ほど費やしたと思う。未だに英語というとかなり苦労する。特に今回は1時間という、やったことのない長さだったので、かなり神経を使った。しかしまあ終わってみれば良いしかし苦い経験ということになる。良薬は口に苦し。
自分の後は、若手の女性の発表が3件あった。東大の旦さんのは開さんとの協同でメディアの理解というか、realityの理解というか、これに関しての大変に興味深い発表が行われた。どうもテレビなどの画面に映し出されるものと現実の理解との間の関係に付け方に6ヶ月から10ヶ月の間に大きな変化があるようだ。後の2件はともにstimulus equivalenceについてのもので、一件は慶應の人、もう一件は理研の山崎さんが小川さん、入来さんと一緒にやったものの発表だった。なかなかおもしろかったのだが、ちょっと眠ってしまったのもあるのと、そもそもあまり詳しくないのとで解説はやめておく。ただStimulus equivalenceというのはなかなかおもしろいもので特に対称性(A->Bを学習すると、B->Aの結合もすぐにできる)は論理的ではないが、どうも人間に固有な現象のようで興味をひく。そうだ、今度CATKATに来てもらって日本語でゆっくり話を聞こう。
最終日は午前中が長谷川真理子先生の嬰児殺人についての話から始まった。嬰児を殺すのは同部では稀で、ボスが交代したときなどに起こることがある(インドの何とかというサルとか、ライオン)がかなり珍しい。しかし人間ではよく起こる。やるのはたいがい女性で、若くて、よく考えた上でやるらしい。また日本は特にそれが多いとのこと。日本で多い理由は文化的、制度的要因が大きいようだ。他には昭和大学の寺沢先生、慶應の女性の発表があった。
最後の論理のセッションは正直つらかった。別に変なことを言っているわけではないのだが、やはりいろいろな意味でつらい。
そこでおもしろい話があった。そもそも論理学は知性のmechanizationを行い、その結果としてコンピュータが生まれた。そこではいろいろな発展もあったが、創造性については全然だめだったということが論理学者の側からなされた。これに対して、コンピュータも適切なプログラムさえあれば創造的になれるとか、人間の脳だってそもそもmechanicalなんだけど創造性を持つことができるとか、いろいろおもしろい議論がなされた。
・・・Illustratorできれいな画像が作れるのは?
・・・写真がエロティックなのはカメラがエロティックだから?
素材、道具とそのプロダクトを混同していると思う。
2008/2/6
故あって最近もう一度読み返したのだが、再度感心。こういう本を書ける科学者というのは、美人なのに性格が良いとか、そういうようなものですね。
動的平衡というアイディアはもちろんグッと来るのだが、今会気がついたことが1つ。とにかくものすごい眼をしている。またビジュアルな記憶が半端ではない。過去に見たことについての情景の描写がすごいのだ。こういう人は普段どのような眼で世界を見ているのだろうか。キャンパスが違うのでなかなかお会いできないのだが、今度あったらぜひこのことを聞いてみようと思う。
2007/4/30
連休ではあるが,今日,私たちがやっている大学の研究所のプロジェクトのヒアリングがあった.そのときの質問をまとめておく.
どのスキルがどの程度伸びたのかを具体的に示せ
これについては確かにプレゼンがよくなかった.レポートの段階論
私これ好き型
基準宣言型
基準構築型
状況設定型
の4つのタイプがあるという話をしたのだが,このタイプに基づく集計を出さなかった.これは失敗.ただし、この段階は当初の予想よりも錯綜していて,きれいな形に収まらないものもあることがわかっている.さてどうしようか。
協調学習とか,問題発見とかも大事だけど,どう書くかを教えるのも大事ではないか
確かにそうなのだ.いわゆる書き方のお作法は大事だ.しかし(これはいい忘れたのだが)、問題を見つけること,書けるものに押さえ込むこと,こうしたことがないと、本当のお作法教育になってしまう.ここらへんはもう少し強調すればよかった.
スキルと能力の関係を明確にせよ
これについてはかなりいい加減に使っているような気がしてきた.レポートライティングと来れば、スキルというのが適当な気がする.レポートライティング能力というのはどうも変な気がする.しかし、このスキルを支える
問題発見、洗練
資料の批判的、複合的読み
文章構成
はいずれも能力に近いものであり,逆にスキルという言葉はなじまないとまでは言い切れないけど、やはり能力という方が適当な気がする.もう少しメンバーといっしょにじっくり考えてみることにしよう.
レポートの採点は第三者に行わせるべきだ
はい、そのとおりです.少なくとも一階目と二回目がわからないような形にして評価する必要があるだろう.
Blogを用いる意味が不明確だ
Blogである必要は必ずしもない.ポイントなるのは
他の人が参照できること
コメントなどのコミュニケーションができること
自分の作品,成果として残っていくこと
という性質を持っていれば別にBlogでなくてもよい.
あとBlog云々というより,授業の展開というか課題の出し方の問題なのだが,「プロセスが可視化される」という性質はとても大事だろう.舘野風の言い方をすれば「ふらふら系」というものを許容できることが大事だ.レポートとして提出したものだけが残るのではなく,レポートを各家庭で自分が考えたこと,他者が考えたこと,これらが残っていくということがきわめて大事なのだ.
学生たちにこれは研究が絡んでいる話なのだということを知らせるべきではないか。
確かにそうだろうねぇ.これらが学会で発表されたり(むろん個人を特定できるような情報は出さないが)することは事前に知らせておくべきだろう.
(あともう1つ大事な質問があったのだが思い出せない)
2007/3/31
忙しくて1週間ほどBillyをやっていなかった。きちんとやらないとと思って帰京したら、妻から娘の同級生の男女が自分もBillyをやりたいとの希望を持っているとの連絡を受けた。ということでそのうちの一人を呼んで応用プログラムをはじめた。すると10数分目にある特になんでもない運動の時に、突然腰がぐぐぐぐぐーーーーみたいな感じになり、その後の続行が不可能になった。それから2日経つがまだ完全には直りきっていない。よってBillyも出来ない。悲しい。
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2007/3/31
小森陽一さんの「心脳コントロール社会」という本を読んだ(だいぶ前に金井君(法政)に勧められて忘れていた)。
認知科学や神経科学の知見が、消費者、有権者をコントロールするために用いられているというのがその骨子だ。物事を強引に二者択一形式にする。そしてその打ちの一方に感情的な判断、直感的な好悪判断上都合のよい(あるいは悪い)イメージを貼り付ける。こうした方法は辺縁系に由来する処理に基づくのだそうで、理性的な検討を超えた強さを持ってしまうと言う。これをCM、マーケッテイング理論、小泉前首相の行った衆院選(改革を止めるなといってやったやつ)などの具体的事例を通して明らかにしていくというものだ。
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2007/3/30
あなたが吉野やに行ったとする。食事を済ませ勘定書を見たらべらぼうに高い。内訳を聞くと、フカヒレスープを食べたと書かれている。そんなものは食べてないし、そもそも店に置いていないのは明らかだ。そこでじゃあフカヒレスープなんて置いているかどうか見せてみろと店に要求すると、それを見せる必要もないし、ルールに従って請求しているだけだという。
このロジック(?)で自らの権力を守ろうとするのが松岡という大臣だ。水道代、電気代がかからないところでも、水道代と電気代を請求した。それも5年間で数千万円という信じがたい額だ。しかしこの大臣が言うには、法律上求められた処理、届け出をしている。よって問題ないという。
これはあくどい論理のすり替えだろう。法律に従って経費を請求し、公開した。適切なのは届け出をしたという部分だけで、これだけのことなんだよね。で、その経費がでたらめであれば当然問題とされる。基本的にカラ出張とか、そういうのと同じ話だと思うのだが、この人が訴追されないのはなぜなのだろうか。
美しい国を作るために、国民に妙な道徳を押しつけようとしている総理大臣もこの大臣をかばう。
2007/3/22
アエラに田園都市線の混雑状況が載っていた。首都圏の混雑度はたいがいは150%以内で、多いところでも(小田急とか)170%くらいなのに、田園都市線はもうちょいで200%というレベルになっている。
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2007/3/22
前の記事と同じところ、つまり「ネットワーク思考」からの話なのだが、「ベーコン数」というものがある。Kevin Baconという売れっ子というのか、よく映画に出ている俳優がいる。この人との類縁度を示すのが「ベーコン数」というと、この本に書いてあった。類縁度とは何によって規定するかというと、映画での共演に基づく。たとえば彼と共演したことのある人(ティム・ロビンスとか、メリル・ストリープとか)そういう人は類縁度というか、ベーコン数が1となる。彼とは共演していないが、ティム・ロビンスとかメリル・ストリープと共演したことがある人(モーガン・フリーマンとかカレル・ライスとか)はベーコン数が2となる。そういう具合にベーコン数を計算する。こういうことができるのはIMDB(Internet Movie Database)という、恐ろしいくらいの映画データベース(利用は無料)があるからなのだ。ちなみに現在はベーコン数だけではなく、任意の人の任意の人に対するベーコン(?)数を計算できるようになっている。
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2007/3/22
Web上をいろいろとさまよっていたら古地図サイトというのを見つけた。こいつはめちゃめちゃに楽しい。自分が住んでいるところ、お気に入りのところが江戸時代、明治時代にはどうなっていたかがバッチリ分かる(ただ東京の区内に限られると思うけど)。
たとえば青学は今の敷地そのものが伊予西条藩(三万石)松平左京大夫頼学という方の土地だったことが分かる。また自分の家の前のおかしな感じで曲がっている道は実は江戸時代のとある殿様の住んでいたところの外れにある馬小屋(?)のようなものを避ける形で作られたということが分かった。非常に狭い道なのだが、明治時代にはもうちゃんと存在していた。驚き。またオレがよく飲みに行く某所は「御先手同心」という火付け盗賊改、なんというか特別警察のような人たちの共同住宅があった地域のようだ。
なんでこんな詳しいことまで分かるかというと、現代の地図で自分の探したいところをポイントして、そこから「江戸」、「明治」とあるタブをクリックすると、そのポイントにおける各時代の地図が出てくるからなんですねぇ。はまります。意味が分からない言葉が多いのでGoogleで検索します、勉強になります。とてもよろしい。
2007/3/17
新聞で一妻多夫制の地域が中国にあるという記事を読んだ。これはなかなかすごい話だった。なんでも若い頃に複数人で一人の女性の家に夜這いに行き、そのままなんというのか子どもが出来て結婚するみたいな話だった。夜這いはこうやるみたいな写真まで載っていた。インタビューに答えている人は、兄弟で一人の女性と家族を形成しているとか。で、誰の子かは分からないが、家の子ということでなんの問題もないとおっしゃっていた。
ちょっと信じがたい光景だ。女は嫉妬深いと言うが、男の嫉妬はそれ以上のような気がする。こういうのはかなり根源的というか、生物学的な何かに裏打ちされた感情だと思ってた。動物でもハーレムを作るような連中は、自分のメスを奪おうとするものに対して猛烈に戦うよね。文化、文明の力はこういうのにも打ち克つと言うことなんだろうか。
2007/3/13
アメリカの一流の会社社長の給料は一般社員の370倍だそうだ。一流会社だから社員だって平均で10万ドルくらいはもらっているだろう。ということは、約45億円・・・・、これ年収です。才能のある人、努力を重ねて成功した人が高い収入を得ることは当然だけど、これはいくら何でもひどすぎるんじゃないのかな。
ちなみに日本はここのエントリーを見ると、3400万円だそうです。一般社員の5倍くらいでしょうか。小泉首相は4000万円だったそうです(給与だけ)。こんなもんじゃないのかなぁ。
2007/3/12
今日、amazonで訳あって自分の本を検索したら、驚くべき発見をした。4年前に稲垣先生(千葉大)、亀田さん(北大)と共著で出した放送大学の教科書がused価格でなんと9000円となっていた。元々は2200円なんですけど。さらに驚くべきは、だいぶ前に妻と外山さんと一緒に訳したMike Siegalの「子どもは誤解されている」(新曜社)は、2件の古本が出ていて、片方は15000円、もう片方はなんと36040円だった(この40円て端数は何よ)。どういうことなんだろうか。
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2007/3/8
Billy’s Bootcampもついに最終プログラムに突入することになった。どんなにきついものなのかと思っていたが、時間も短い、難しい運動も少ない、正直言ってかなり楽だ。確かに運動はかなり速く、はじめはとまどうのだが、基本→応用→腹筋というプログラムを通して、ベーシックな動きと、筋力を身につけたものにとっては難なく出来る。というようなえらそうなことを言っているが、最終プログラムに2ヶ月もかかってたどり着いているのだから、オレ自身は大したことはない。
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2007/3/8
月末あたりに京都で大学教育研究フォーラムというのがあって、そこで発表をしてくる。というわけでいつもの宿を予約しようと思ったら満杯。それでネットで探したのだが、これがまたどこもいっぱいだ。希望地域、価格帯のところはほとんどというか、全く見つけられない。yahoo、楽天などどこを探してもない。ということで、旅行代理店を今日ははしごした。やはりここでもほとんどなく、いろいろとやってくれたのだが、結局見つからず、あまり希望しない地域に(にもかかわらずかなりの値段で)泊まることになった。
なんでこんなに込んでいるのかと聞くと、「花見」だという。そうだったんですか、皆さんは京都に花見に行くんですか。人生結構長く生きているけど、これははじめて知った。紅葉というのはよく聞くのだが、桜を見るために京都まで行く人がたくさんいるんだぁ。なにやら本当のシーズン(4月はじめあたり)は京都の宿は取れずに大阪に泊まる人も多いとのこと。はぁああ、絶句。世の中平和だし、豊かだ。
2007/2/26
ほかに書きかけのものもあるのだが、好評のBillyシリーズについての追加情報です。hatenaで調べたところ、
アメリカ陸軍・エリート養成プログラムの専属トレーナを努めていたビリー・ブランクスが、軍隊式トレーニングを基に、女性でも気軽にできるように独自に開発したエクササイズ。との宣伝文句。
とありますが、「女性でも」はともかく、「気軽に」は絶対にありません。「との宣伝文句」というのがいいですね。あとここを開くと楽天の「ビリーバンド特集」というのがあるけど、それはあまりにひどいネーミングですね。無論ビリーバンドだけ売っているわけではないのですよ。
ちなみに本家ではbilly bandだけでも売っているようです。またそれとともにプログラムは進化していて、Billy’s Bootcamp Eliteというものが発売されているらしい。
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2007/2/25
先週、夜中にうちに遊びに来たOさんに(罰として?)Billyをやらせた。楽な腹筋プログラムではなく、ハードな応用プログラムをBilly Bandつきでやってもらった。私よりだいぶ若い人で、20年位前はとにかく馬力で売っていた男だ。で、どうだったか。
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2007/2/25
中学や高校でクラスメートの品評会とか、格付けとか、そういうことをやる私的サイトが増えているらしい。ネットの利用はむろん自由なのだが、これはこたえるだろうなぁ。確か、小学6年の女児がクラスメートを学校で殺害したのも、この種のサイトでのいざこざがきっかけだったことを思い出した。
以前、外部に公開していないBlogから外の記事にTBをしたことがある。先方の方が出版された本をゼミの閉じたBlogで紹介したときにうっかりTBしてしまったんですね。で、先方としてはTB元を見てみようと思うとパスワードを要求されて見られない。それで先方が「とてもいやな気がする」というコメントをその記事に載せていて、だいぶ後になってそれを発見し、謝罪した次第です。確かに自分が逆の立場だったらやはり同じ思いを抱くだろう。
自分に対して何か(よからぬことも含む)が言われている。しかし自分はその中身を知ることはできない。ただしそれは半公開状態になっており、さまざまな人がそれを読む可能性がある。これはネット以外のところで陰口を言われていたというのよりも格段にいやな感じがする。こういう不安、不快に耐えるのはちょっときつすぎるね。
2007/2/7
学期末試験の採点に追われている。今年はある工夫をしたのでかなり楽だし、かつ学生のためにもなっているように思う。しかし枚数が枚数なので正直くたびれる。こういう中ですばらしい答案に出会うと活力が湧くという経験は誰でもあると思う。活力は湧かないが笑える答案もある。
今回の最優秀賞は、メンタルモデルをメンタムモデルと数回にわたって書いた人に授けます。これを家で話したら、娘が「捨て身の受け狙い」と断じていたが・・・
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2007/2/7
ネットをいろいろ見ていたら、とんでもなくいい言葉を見つけた。これは放送大学千葉学習センター所長の藤原康晴先生が新入生への言葉として、同じ状況の時にフーコーが語ったことを引用したものだ。URLだけでもいいのだが、万が一このページがなくなるとまずいので、フーコーの部分だけ以下にコピーしておく。
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2007/2/7
ここにも何回か書いたが、2002年度から明治学院大学法務研究科の吉野先生を中心とした科研費(特別推進)のメンバーに加わって研究をしてきた。ここでの成果をタイトルにあるような学会で共同発表(むろん吉野先生が中心だが)したところ、昨年暮れに最優秀賞を頂いた。これについて短い文章を書いたので思い出とメモかたがた載せておく。
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2007/2/6
Billy’s Bootcampも第3段階に入っている。3枚目は腹筋プログラムだ。1,2枚目の腹筋がひどくつらいので、3に行くのはためらっていたのだが、1週間前くらいから3に入っている。正直、意外に楽です。時間も30分チョイくらいしかないし(以前の2枚は50数分ある)、休める運動が結構あるので、最後まで一挙に出来る。いや、オレがだんだん鍛えられてきたからかも知れない。実際のところ、体はだんだんすごいことになってきている、ふふふふふっっ。そろそろ最終プログラムに移ろうかな。
2007/2/6
11日秩父宮で行われたラグビーマイクロソフトカップ決勝を見に行った。3連覇を狙う東芝と、復帰した清宮監督の率いるサントリーという大変に魅力的な組み合わせだ。ご存じのように東芝がロスタイムでのモールから、バツベイの逆転トライで14-13で勝利した。かなり劇的だ。
確かに点差は1点だが、試合はやはり東芝だったように思う。東芝は2トライを挙げたが、1つは相手バックスディフェンスを連続攻撃で崩し、最後は個人技によるきれいなトライ、もう1つはモールからのフォワードの技術と力のトライ。組織力と個人技のみごとな統合(?)。一方サントリーはパスインターセプトと、PKの13点。総合力ではやはり東芝だったように思う。
しかしサントリーも昨年から見れば恐ろしいほど強くなっており、全日本が楽しみだ。やはり来週、再来週と秩父宮に行くしかないな。ところで秩父宮は楽しい。国立よりもずっと選手を身近に感じることが出来る。今回は特に前から4列目で見たので、選手たちのすごさを実感できた、とにかくでかい、ごっつい、速い。国立はやはり遠すぎて、こういう感覚を持てない。
そうそうあと秩父宮はその日2万3千人の入りで、完璧満員の状態だった。大学ラグビーが込むのは承知なのだが、社会人がこんなに込むとは思っていなかった。東芝の富岡キャプテンも「こんなに多くのお客さんの中でやったのははじめてです」と言っていた。
2007/1/11
高校での必修科目の未履修、履修漏れ問題がずいぶんと大きな問題となったのはつい最近だ。この話と、彼の事務所賃貸費の付け替え問題はよく似ていると思う。
「領収書が必要な経費だけではやってられないので、領収書の要らない事務所の賃借費用に勝手につけ変えました」 = 「指導要領の言うとおりでは受験指導はやっていけないので、受験に必要ない科目としてごまかして実際は受験指導をやっていました」。
履修もれ問題について、伊吹文部大臣は、この問題の責任は各学校長にあるとの判断を示した。経費の付け替え問題も実際は秘書がやっているのだろうけど、これを黙認してきた伊吹大臣の責任は免れないのではないだろうか。
「悪いことに使ったわけではない」とおっしゃるが、なんともこの人の浅薄さというか、図々しさというか、そういうものを表しているように思う。履修漏れ高校だって、別に悪いことにその時間を使ったわけじゃなくて、ちゃんと別の勉強させていたんだよね。それでも処分でしょ。そして生徒たちにも足りない分ちゃんと勉強させたでしょ。
じゃあ、自分も責任とってやめるとか、ごまかしたお金を返還するとか、そういうことをなさってはいかがですかね。
2007/1/10
Billy’s Boot Campの話は以前したのだが、1週間基本プログラムをやり続けました。きつかったですよー。腹筋プログラムあたりは全然できないし、上腕、三頭筋あたりのやつもとてもビデオに出ている人のように続けてやることはできず、何度も休みながらという感じですね。Billy bandがなんともつらい。
で、もう少し基本やってからの方がいいのかなと思いもしたんだけど、1週間基本をやったということで応用プログラムに行きました。
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2007/1/10
昔、「健康のためなら死んでもいい」というコマーシャルがあり、大変に笑えたのだが、健康に気をつけると言うことは非常に危険な側面を持っていることに気がついた。
高血圧気味だとしよう。食事、運動によって血中コレステロールを下げる努力をすると、長生きする。長生きすると別の病気にかかる危険性が高まる。三大成人病は心臓疾患、ガン、脳卒中だが、これらはいずれも年齢を経るに従って罹患率が急激に高まる。
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2007/1/9
ラムズフェルド国防長官といえば、ブッシュ政権を支えるネオコンの親玉として有名だろう。イラクに対する侵略を提言しまとめたのは、この人を中心とするブッシュの取り巻きだというのが一般の理解だと思う。
で、こうした動きというのは当然制服組の意向を代弁したものだとばかり思っていた。ところが、先日NHK-BSで再放送された「ラムズフェルドの戦争」という番組を見て、実際は全く異なることが起きていたということが分かった。
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2007/1/3
Billy’s Boot Campというのをご存知ですか?アメリカ軍の新人トレーニングプログラムとかを担当したBillyが誰でもできるようにと作った1週間の筋トレプログラムです.ちなみに彼は地上最強の51歳だそうです.このがDVD4枚セットになって15000円くらいで通販で売られている.夜中になるとなんと言っていいのかわからんのだが,東京MXテレビでこれのコマーシャルを20分ほど流す.このコマーシャルによると1週間このプログラムをやれば,脂肪がとれ腹が6つにわれるとか.ほとんど冗談みたいなコマーシャルだし,DVD4枚で15000円は結構なので買わずにいたのだが,なんだけど,なんかCMに妙に(Billyの人柄?)惹かれるものがあった.ある晩,酔って帰ってCM見たときに発作的に通販に注文をしてしまった.2週間で配達されるという話がたった2,3日で配達されてしまった.ということで,ちょうど1月1日から開始した.
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2006/12/31
昨年はいろいろあって今年の抱負というのを書く気分ではなかった。今年は書いておくことにする。2年前と変わらない部分も多いのだが、まあそれは当然だよね、2年で片がつくわけではないからね。
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2006/12/19
一日に50件くらいずつのSPAM TBが来てます.せっせと消しています.まあ困ったものなのだが,先日私のBlogをよく読んでくださる方から,意外な話を聞いた.TBがあると昔の記事が半ばランダムに『最近のトラックバック』というところに出てくるので、読んでみると懐かしかったり,なるほどと思い直したりして,けっこう役に立つというのですね.災い転じて福となすというわけにはいかないんだけど,まあなるほどと思った次第.
TB禁止リストも1500くらいになりました.そのうち公開しようかな?やっている人はいるようですね.一人1500くらいではどうにもならないんだけど,そういう人が何万人、うーん、何万ではどうしようもないな、何十万くらいになれば、けっこう役に立つかもとも思うけど,そんな長大な禁止リストを各Blogサーバが抱えていたら,たぶんまともに動かなくなるだろうなぁ.あと必ず嘘のリストを作るやつもいるだろうし,やっぱこの方法はだめだね.
ええと、いろいろ書いたけど,とにかくSPAM TBは消しますからね.(といっても通用せんだろうなぁ)。
2006/12/19
今月のCatkatは東大&博報堂の鷲田さんの研究発表があった。マーケッティングとマルチエージェントシミュレーションを組み合わせるという、catkatではほとんど聞けない、大変におもしろい話を聞かせてもらった。
彼の考えの根本はdemand side innovationのモデル化だ。これは何かというと、供給側の工夫や改善によるイノベーションではなく、需要者側が製品の持つ特定の機能を供給側の意図しない形で評価し、それが口コミなどを通して業界のスタンダードとして定着するというような現象を指す。たとえば携帯の着メロなどはその典型ということだそうだ。
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2006/12/12
Human Agent Interactionについてのシンポジウムが12/12-13,慶應日吉キャンパスで行われた。ということで出かけていった。というか、今回これのPCのメンバーだったのでというのもある(でも何もしなかったけど)。このシンポジウムの関連としては,以前人工知能学会に行った時に感想を書いた.このときも危なくて,面白くて,誘惑されるような研究があり楽しかったのだが、今回もまたいろいろと刺激的で魅力ある研究をいくつも知ることが出来た。
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2006/12/12
認知科学会学習と対話研究会が12月9日に開かれたので出席してきた。今回は大沢さん(東大)と三輪さん(名古屋大)の2人のスピーカによる、チャンス発見に関するものだった。
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2006/12/7
GibbsのEmbodiment and Cognitive Scienceを読んでいるのだが、むろんこの中には認知言語学が大きく取り上げられることになる。今読んでいる章はLakoffのイメージスキーマの話がかなり詳しく解説されている。
認知言語学はむろん存在は知っており、Lakoffの本も昔読んだことがあるので何となくは分かっているのだが、当事者ではないので、まあ遠巻きに見ているという感じだった。しかしGibbsの本を読むといろいろとポイントが分かってくる。特にオレにとって印象的なのはカテゴリーの話だ。
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2006/12/7
しばらく前の話(11/30)なんだけど、ICPA(International Conference of Perception and Action)という学会が来年横浜で開かれるとかで、その予行(?)シンポジウムというのが、横浜赤レンガ倉庫というところで行われた。ということで行ってきた。
発表者は、
三嶋さん:自動車運転時の光学的情報
工藤さん:ドラムの初心者-熟達者のDSA的比較
染谷さん:生態学的アプローチについての哲学からの疑問(への回答)
鈴木さん:マイクロスリップ
廣瀬さん:マイクロスリップ
の方々で、生態心理学関係の方たちが主だった。
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2006/11/25
昔自分もやっていたということもあり,ラグビーは毎シーズン楽しみにしている.社会人のすごさもいいのだが,大学ラグビーは独特の盛り上がり方をするので,やはり好きだ.大学の試合の楽しさは,この中で一体誰が全日本に行くのだろうかという,そういう将来の期待を込めた見方ができるところだ.ということで,昨日,早稲田ー慶応の試合をテレビで見た.確かに最終的には早稲田の勝利となったが,途中の展開などはかなり楽しめた.
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2006/11/22
今日、学部の授業を聞いている1年生から「私はまだ何をやりたいのかも決まってなくて」と言われてたまげた。むろん「1年で決まってたら大変だよ」と伝えた。自分が何をやりたいかなんて言うのは、48年生きてやっと少しずつ分かってきた、あるいは分かってきたような幻想を持つようになった、くらいの話である。
こういうのを聞くと、今の学生はかわいそうだなぁとつくづく思う。キャリアディベロップメントとか、自分探しとか、そういう変な言葉が若年層に広がり、あわてているんだろうなぁ。学生の就活なんかもそうだ。きちんとやりたいことを決めないと先に進めないというような圧迫を社会が加えるもんだから、早合点したり、浮かれたり、落ち込んだり、やらなくてもいいことに振り回されている気がしてならない。
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2006/11/22
閉じたブログの中で卒業生が教師教育について批判的な記事を書いていた。それで触発されたのだけれど、教師教育というのは学び手の学びを知ること、につきるのではないだろうかと思った次第。
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2006/11/16
タウンミーティングと称するもので、国民の意見をじかに聞こうとする、これは大事な試みだ。しかし、政府案に従うような質問を事前に作り、これを命令しやすい人間に渡して質問させ、挙句の果てに金まで払うというのは、何のことでしょうかね。
さらに「なんらおかしなことではない」と強弁する官房長官、こういう人間はどういう精神構造をしているのだろうかね。こういうのをやっちゃいけないのは、反対のことを対立政党が行ったときのことを考えればすぐにわかると思うのだけど。愚か過ぎる。
2006/11/16
大学近辺でしか仕事をしたことがないので、世の中のほかの仕事のことはさっぱりわからない。今までなぞだと思ってきたことを2つ書く。
1つは節税対策用のマンションの話だ。最近はあまりないのだが、時々集中的に節税対策にマンションをという電話をもらう。貸しているだけでどんどん儲かるというような話をどこの業者もする。さて疑問なのは、そんなに儲かるのならばどうして自分がしないのかということだ。そんなおいしい話を人に紹介してどうするんだ、というのが疑問その1.まあ節税程度の話に過ぎなくて、自分のところの会社は目いっぱい負債(?)抱えているので、これ以上節税できないからということなのだろうか。それにしてもどうして見ず知らずの人にそんな話を持ってくるのだろうか?
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2006/11/8
情報センターの年報に書いた原稿だけど,とりあえず載せておきます.この話は認知科学かいで話したようなことなんだけど,ここのBlogでいろいろと書いてきたことをうまく(?)組み合わせて,仕上げたものです.本当にこういう原稿のときにはBlogが役立つなぁ.
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2006/11/7
日本心理学会に参加してきた。朝晩とかなり動き回っていたので、とても記事を書く気力が湧かなかった。昨年と比べて自分の関心が広がったせいなのか、たまたまなのか、分からないが、いろいろと勉強になった。いちおう、日記風にまとめる。
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2006/10/31
学部時代大変にお世話になった天野清先生が今年の初めに中央大学で最終講義を行ったということが(今頃になって?)分かった。最終講義の内容が分かる中央大学の心理学科のニュースが届いたのでちょっと書いておきたい。
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2006/10/30
駅伝というのはまじめに見たことがない.しかしゼミの学生が関係していることなどから,少しずつ興味を持っていたのだが,先日日本テレビで放映していた(正式名称はよくわからないけど)全国大学女子駅伝というのを最初から最後まで見た.かなり面白かった.
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